あまあま(甘々)


 夏の暑い夜なのに、手が温もりを求めた。しかし、その手の平がふれたのは、空っぽのベッ
ド。きっとトイレにでも行っているのだろう。何だかすっぽかされた気分だ。
 ほのかがベッドの上で寝返りを打った。
(あっ…)
 違う。心地良いまどろみに閉じられていた瞼が、ゆっくりと開かれる。今夜もなぎさはいない。
夏休みを利用して、二泊三日のラクロス部の強化遠征合宿。なぎさには短くて、ほのかにとっ
ては長い離ればなれ。
 まだ日付は変わっていない。なぎさが帰ってくるのは、明日の夕方頃になると聞いている。で
も、『ほのかに一秒でも早く会いたかったから!』なんて理由で帰宅時間が早まったりはしない
だろうか。そんな事を考える。
「はぁ…」
 ほのかが溜め息をこぼした。昨日から数えて、一体いくつめの溜め息だろう。
 いつもなら二人で寝るには狭いくらいのベッドが、やけに広く感じられて落ち着かない。
(なぎさがそばにいないと……さみしいな……)
 ベッドの上に仲良く並んだ二つの枕。自分の枕に頭を預けたまま、ほのかが恋人の枕を優し
く抱き寄せた。そして、ぎゅっ、と顔を押し付けてみる。
(……なぎさ……)
 枕にこもった髪のにおい。
 ほのかの鼻が何度もそのにおいをすすり、愛しさを胸に募らせる。それと同時に、狂おしい
ほどの切なさも胸に溢れかえってきた。
(……なぎさっ!)
 たまらなくなって、枕相手に激しいくちづけをかわす。唇の触れている部分の枕カバーが、熱
い湿り気を帯びてゆく。なぎさに思い焦がれる気持ちは、ほのかの体温よりも温度が高い。
 今すぐ逢いたいという想い。今すぐ抱きしめてほしいという願い。
 今はどちらも叶わない。
 ほのかが枕を放して、くてんっ、と仰向けになった。
「なぎさのばか……」
 小さなつぶやきが洩れた。静かに両目を開いて、ぼんやりと天井を眺める。
(どうせなぎさは私の気も知らないで、今頃ぐっすり寝てるんだろうなぁ…)
 ほのかの手が再びなぎさの枕に伸びた。
(………………)
 ぐいっ、とそれをつかみ寄せ、左腕でギューッと抱きしめて固定。強く握った右のコブシをグリ
グリと押し当てた。
 なんだかなぎさの幸せそうな寝顔を思いうかべたら、無性に腹が立ってきたのだ。
(もうっ、いつも地鳴りみたいないびきで私の安眠邪魔するくせに……どうして一人の時ぐらい
ゆっくり眠らせてくれないのよっ!)
 なぎさが一緒に寝てくれないせいで、逆に不眠症になってしまいそうだ。
(だいたい、二日間電話の一本も寄こさないってどういうことっ!? 私なんかと話すより、みん
なとおしゃべりしてるほうが楽しいのねっ、なぎさったら!)
 どすっ、どすっ、どすっ……と怒りにまかせたコブシが、何発も枕に叩きこまれる。しかし、そ
れもすぐに勢いを失った。
「…………」
 ほのかが、枕を細い両腕で包み込むように抱き直し、それに向かって語りかけた。
「少しだけでいいから、なぎさの声……聞きたいよ……」
 ほのかの瞳が悲しげに閉じられた。
 いくら空気があっても、いくら食べ物が豊富でも、なぎさのいない世界では生きてゆけない。
つややかな黒髪を枕に散らして、ほのかは死んだように目を閉じ続けた。
 死んだまま、王子様が魔法のキスで目覚めさせてくれるのを待つ。

 朝が来て、お姫さまは自分から目を覚ました。でも、ベッドから起き上がる気になれない。
(エネルギー不足…。なぎさからエネルギーを分けてもらわないと……)
 なぎさの枕を引き寄せたほのかは、昨夜みたいに鼻を押し付けて、スンスンと匂いを嗅い
だ。とりあえず、午前中分のエネルギーは確保。
 今日は、きっとお腹をすかせて帰ってくる恋人のために、たっくさん晩ご飯を作らなければな
らないのだ。質より量、というわけではない。質も量も、最高のものを。

 蒸し暑い夏の夕暮れ。縁側にひざを抱えて座り、ほのかはジッと待っていた。晩ご飯の支度
を終えた頃から、何も手につかない状態になっていた。早くなぎさに逢いたいという気持ちが募
るばかり。
 忠太郎が何度も吠えて知らせてくれた。 ―― やっと帰ってきた。けれど、ほのかは動かな
い。
「ただいま〜、ほのか。お土産あるよ」
 荷物も置かないで、まっすぐにほのかのところへ来てくれたなぎさ。何気ない「ただいま」の一
言が、ほのかの耳に幸せなくすぐったさをもたらす。
 しかし、ほのかは無言を返し、庭へと向けた視線を動かさない。
「あれ、ほのか、なんか怒ってる?」
「怒ってます。なぎさが、なかなか帰ってきてくれないから…」
「え〜、なによそれ。これでも全力で走って帰ってきたのに、ほのかったらひっどーい」
 なぎさが軽くブーイングを飛ばしながら、いったん荷物を部屋に置きに下がった。そして、すぐ
に戻ってきた。
「えへへ、ほのか、アタシがいなくてさみしかったんでしょ?」
 図星を突かれて、素直にハイそーですなんて言えない。ほのかは微かに唇をとがらせて、顔
をそむけた。一呼吸おいて、ほのかが逆襲に出る。
「……おんぶ」
「へ?」
「私をおんぶして、部屋まで運んで。……じゃないと、晩ご飯抜き」
 内容は幼稚だが本気の脅迫だった。なぎさは逆らえない。
「ハイハイ、もう、ほのかったら子供なんだから」
「まだ未成年だもん。子供でいいもん」
「ていうかさ、走って帰ってきたから、全身汗だくだよ? ほら、服も汗でびっしょり……」
「お・ん・ぶっ!」
 仕方なく、なぎさが後ろを向いてしゃがんだ。その背中に、ほのかが体を寄り添わせた。
 激しい運動後の熱くなった体温に、ぐっしょりと汗の染みこんだ服の湿り具合。でも、それらを
不快とは思わなかった。
 好きな相手と体を重ねるという行為が、ほのかの胸に小さな幸福を生む。
(なぎさの背中、すごく熱くなってる……)
 ほのかが両腕を回して、なぎさの背にしっかりと体を密着させた。両ひざの裏に、なぎさの手
が添う。優しい力強さを感じた、と思った時には、すでにほのかの両足は縁側から離れてい
た。
 ほのかが拗ねていた場所から部屋までは、本当にすぐそこといった距離で、あっという間に
ついてしまった。しかし、ほのかが後ろからなぎさの耳元に口を寄せてささやいた。
「お願い、もう少しだけこのままで…」
 なぎさがうなずいて、ほのかを背負ったまま部屋の真ん中に立ち続ける。
 大好きな背中に体を預けて、ほのかはうっとりと目を閉じた。顔にふれる後ろ髪も、すっかり
汗に濡れていて、早くお風呂に入らせてあげたいと思うのだけれど……。

 ―― 離れたくない。このままずっと。

 ほのかの両腕に力がこもった。顔を深く寄せて、なぎさのうなじへ唇を這わせる。日に焼けた
皮膚を流れ落ちようとする汗の玉を「ちゅっ」と音を立てて吸った。
 官能的なしょっぱさ。夏っぽい味だと、ほのかは思った。
「なぎさが全力で走って帰ってきたのは、私に一秒でも早く会いたかったから?」
「うんっ!」
 躊躇もなく首を縦に振った恋人のうなじに、今度は『かぷっ…』と噛みついた。歯先で捕らえる
首裏の肌の感触。キスと同じくらい甘い噛み方。
 しばらくの間、両目を安らかに閉じて、なぎさのうなじを優しく噛み続けた。そして、そっと口を
離す。
「ウソつかないの。なぎさが一秒でも早く会いたかったのは、私じゃなくて晩ご飯のほうでしょ」
「ははは、ほのかが拗ねちゃった」
「そんなこと言ってると、ホントに拗ねるわよ?」
 微笑を含んだほのかの声。続けて、甘くとろけた声音で、なぎさの耳もとへ愚痴をささやく。
「どうして電話くれなかったの? なぎさの声聞けなくて、さみしかったんだから……」
「ん、……ごめんね」
「だめ、ゆるしてあげない」
 ほのかの優しいオシオキ。『ちゅっ…』と音を響かせて、なぎさの耳たぶに唇が這った。なぎさ
がくすぐったそうに、微かに身をよじった。
「もしかして、電話、禁止されてたの?」
「そういうワケじゃないんだけど……」
 なぎさが、ほのかの脚を持つ手を緩めた。ほのかは駄々をこねず素直に降りた。だが、なぎ
さに背後からしがみつく両腕は解かない。
 なぎさが自由になった両手で、ほのかの両腕を愛しげにさわった。
「電話できなかった。今回の合宿さ、初めての他校のラクロス部との合同合宿で……」
 あの『赤の嵐』というチーム名を体現した真っ赤なユニフォームを思い出しながら、なぎさが歯
切れ悪そうに続ける。
「……正直、部全体としてはウチと同レベルだけど、そこのエースの子が、完全にアタシよりレ
ベルが一個上なのね。中学生みたいにちっちゃいけど、アメリカからの遅刻子女なんだって」
「帰国子女でしょ?」
 ほのかがやんわりと訂正を入れてから、無言で話の続きをうながした。なぎさが指先でほの
かの腕をなぞりながら、再び口を開く。
「あんなにハッキリ負けてる状態で、ほのかに電話なんてできなかった。カッコ悪くて……」
「負けてても、カッコ悪くてもいいじゃない。私は、そんななぎさを嫌いになったりなんてしないわ
よ」
 ほのかがそう言って、背後から抱きしめる腕に、ぎゅっ、と力をこめた。なぎさを誰かと比べ
て、好きな気持ちを減じたりするなんてありえない。
 でも、なぎさが毅然と首を横に振った。
「やだ。ほのかの前では一番カッコいい女でいたい。じゃないと、アタシのプライドが許さない」
 一瞬、ほのかは色々とツッコミそうになったが、今の発言は、あくまでラクロス限定の極めて
範囲の狭い話だとして納得する。
「……で、結局その相手の人には勝てたの? 私の素敵な王子様」
「その王子様ってゆーのヤメてよ、アタシ一応女の子なんだから」
 高等部で普通に流通するようになったその呼び名に、なぎさが不満げに眉をひそめた。
「まぁ、ギリギリ……合宿終盤で追いつけたってゆーか、互角に近いカンジ。次、対戦する時ま
でにアタシもどんどん技術磨いて、あの子に必ず勝つよ。ここでほのかに約束する」
 ほのかへラクロッサーとしての誓いを立てる。
 自分の吐いた言葉を現実にするために、どんなツライ事もいとわない。その厳しい覚悟を、ご
く自然体で己に課したのだ。
 ほのかが、そんな彼女の身体を痛いぐらいに本気で抱きしめた。今のなぎさは最強にカッコ
いいと、ほのかの全細胞が認めていた。
「なぎさ、勝って。私もなぎさの前で一番いい女でいられるように自分を磨くから」
 ほのかも誓う。同性間の結婚は今の日本では法律上出来ないが、それでも自分はこの素敵
な王子様の妻なのだから。いつまでも胸を張ってそう言えるように努力し続けようと思う。
 なぎさの身体を後ろから抱きしめながら、彼女の後ろ髪に頬を押し付けた。そして汗に濡れ
た髪の湿り気を愉しむ。
「ほのか……しあわせ?」
「うん。しあわせ」
 ほのかが素直に返事をした。
「そうだ、なぎさ、このまま二人でお風呂行きましょ。背中流してあげる」
「う〜ん……別にいいけど、今日は疲れてるんだからセクハラとかは無しにしてよ?」
「いいえ、します。いっぱいやらせてもらいます」
「もおっ、本当に疲れてるんだってばぁ。お腹だってペコペコなのに〜〜」
「ふふっ、なぎさったらそんなに遠慮しないで。愛情こめてたっぷりと可愛がってあげるから。…
…あっ、先に言っとくけど、抵抗したら、なぎさの晩ご飯は無事では済まないわよ?」
 どこまで本気なのか分からないイジワルな笑顔を浮かべて、なぎさの体を後ろから押しなが
ら歩き始める。
「あぁ…こんなのってありえない……」という無力さのにじんだ小さなつぶやきは、ただむなしく
廊下に響いて消えてゆく。
 もちろん、それはほのかの耳にしっかりと届いていたが、二日ぶりの幸せを満喫するために
は少々の犠牲は付き物。同情なんてしてられない。
(ごめんね、なぎさ。今日一日は、あなたを放さない)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 夏の暑い夜なのに、手が温もりを求めた。
(んっ…?)
 一瞬だけ目を覚ましたなぎさが、その手をしっかりと握り返し、またすぐ眠り落ちた。大きない
びきを立て始めた彼女の隣で、ほのかはとても穏やかな表情のまま眠り続けた。


(END)