せつなの夜、あったかい朝

 かちゃ…。
 ドアノブをひねる微かな物音で目が覚めた。
 せつなが、あたたかいベッドの中で寝返りを打って、ドアのほうへ体を向けた。
「…………」
 予想通り、半分寝ている顔のラブがボ〜っと立っていた。意識はほぼ夢の中をさまよってい
るのだろう。後ろ手にドアを閉める仕草も、ベッドへ歩み寄る動作もおぼつかない。
(これは……完全に寝惚けてるわね)
 おそらくトイレに行った帰り、自分の部屋と間違えて入ってきたのだろう。そのままベッドへ潜
りこんでこようとする彼女を止めずに、身体をずらしてスペースを空ける。
「…ん〜っ……」
 ベッドのぬくもりが気持ちいいのか、ラブが小さな声を洩らして幸せそうに横たわる。
 ぐいっ、と頭の下で枕が引っ張られる感触。「あっ」と思った時には、すでにせつなの枕はラブ
の頭の下に移行していた。
「……」
 ちょっとムッとして、せつなが閉口する。……が、ラブから枕を取り戻すようなマネはしない。
我が物顔でせつなの枕を占領しているラブの寝顔を見つめながら、
(まったく…)
 と、心の中で苦笑するにとどめる。
(しあわせそう……)
 そっと彼女の髪に手を伸ばして、そのやわらかい感触をいらう。 ―― 今、どんな夢を見てい
るのだろう。せつなが想像を馳せながら、優しく表情を緩ませた。
 ラブの唇がむにゃむにゃ動いて、「せつにゃ〜……」と寝言をつぶやいた。
 せつなが声に出さずに問いかける。
(わたしの夢を見ているの、ラブ?)
 返事の代わりに、「スー…」と穏やかな寝息が返ってきた。
「ふふっ」
 せつながクスクスと楽しげに微笑を洩らした。不意に胸に生じた幸せがこそばゆかったの
だ。
 ラブの髪をいらっていた手を掛け布団の下に潜らせ、愛しげにラブの身体へと伸ばした。彼
女の眠りを覚まさぬよう、静かに身体をすり寄せる。
(ラブの身体……やわらかくてあったかい……)
 ラブを起こしてしまわないように気を付けつつ、彼女の身体を抱きしめた腕に、少しずつ力を
こめた。ゆっくりと時間をかけて、二人の少女がベッドの中で密着してゆく。
 ―― とくんっ。
 鼓動が高鳴り、幸せな感触を胸中に響かせた。せつなが目を細め、しばらくの間、その感触
に浸った。
(本当に……あたたかい……)
 せつなが目をつむった。ラブの体温や髪の匂い、そして頬に当たる吐息までもが、せつなの
胸の中で"幸せ"に変換された。
「んっ…」
 せつなの腕の中で、ラブが小さく身じろぎした。寝苦しくなったのかと思い、せつなが腕の力を
緩めてやると、今度はラブのほうから、がばっ!と大胆に抱きついてきた。
「 ――― !!」
 せつなが、びくっ!と体を震わせて驚く。
 顔同士の距離があまりにも近い。頬と頬がくっついてしまいそうだ。
(ラブっ……)
 せつなの顔が自然と赤らんでしまう。とっさに緊張した表情も、ラブがまだぐっすり眠ったまま
なのを見て、小さな溜め息と共にほぐれた。
(もうっ、寝惚けて驚かさないでよ)
 せつながわずかに顔をそらしつつ、ラブの身体を抱きしめ返した。彼女の身体のぬくもりとや
わらかさ。もっと腕にギュッと力をこめて、全身いっぱいで味わいたいと思った。でも、そんなこ
とをしたら、きっとラブは驚いて目を覚ましてしまう。
(こんな夜更けに起こしたら悪いわよね……)
 すごく残念そうに、せつなが心の中でつぶやいた。
 ただ、時間だけが無為に過ぎてゆく。しかし、ラブと朝までずっとこうして抱き合っているという
のも悪くはない。
(……っていうか、使わないんだったら返しなさいよ、枕)
 抱きついてきた時に彼女の頭から離れた枕に、せつなが手を伸ばした。ラブの頭をそっと下
から持ち上げて、枕を滑りこませる。そこへ自分の頭も一緒に乗せると……やっぱり顔同士の
距離がどうしても近くなってしまう。
 すぐ間近にあるラブの寝顔。せつなの顔が夜目にもハッキリ分かるほど赤面した。
 なぜかは分からないが、胸がドキドキしてくる。管理国家ラビリンスで生まれ育った彼女に、
『恋』という概念はなく、今の自分に戸惑うばかり。
(胸が苦しくなってくる……? なにこれ、病気?)
 初めて感じる切なさ。ラブのほうへ、ほんの少しだけ顔を近づけた。
 唇に当たる吐息の感触。
(ラブに触れたい……)
 その想いが狂おしく胸に湧き上がって、心拍数が上昇する。胸の苦しみは増したのに、不思
議とそれを辛いとは感じなかった。
 さらにせつなが顔を近づける。
 彼女はまだ『キス』という行為を知らない。ただ、自分の唇でラブの唇に触れただけだった。
 せつながくすぐったさに驚いて、すぐに唇を離してしまったせいで、重なったのは一瞬だった
けれど。
「…………」
 ラブの唇と触れ合った自分の唇へ、せつなが静かに手をやった。指先で、そっと触れる。
(……くすぐったかった)
 続いて、せつなの口から「…フフっ」と鈴を転がすような微笑がこぼれ出た。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 心地良いまどろみの中で迎えた朝。まだカーテンの外側も白み始めたばかりの時間帯。
「ンっ……」
 すぐ近くからの視線を感じていた。せつなが瞼を上げて、そちらへと瞳を向けた。
 ラブが口許にニヤニヤと笑みを広げながら、せつなをジッと見ていた。
「……な〜に、ラブ?」
「まずはおはよう。……ってゆうかさぁ、せつな、寝惚けてたんでしょ?」
 せつなが顔に「?」という疑問符を浮かべて首をかしげた。そんな彼女へ、ラブがさも面白そ
うに語り始めた。
「おおかたトイレに行った帰りに寝惚けて部屋を間違っちゃったってところかな。目が覚めたら
さ、せつながあたしのベッドで寝てるんだもん。もおっ、驚いたよ〜」
 そう言って笑うラブの目の前で、せつなが疲れたように溜め息をついた。
「ちょっとラブ、顔を……」
「えっ?」
 ラブの顔が、せつなの両手に挟まれた。そして、グリッ、とねじられる。その際「ぐえっ!」とい
う声がラブの口から洩れたが、せつなは無視。
 せつなの寝顔ばっかり見ていたラブに、強制的に室内の様子を見せ付ける。
(あれ……?)
 ようやくラブも気づいたらしい。せつなが顔から手を離すと、不思議そうな表情を作りながら首
を元に戻し、そして尋ねる。
「なんであたしの部屋がせつなの部屋になってるの?」
「どんだけ寝惚けたら、そういう質問が出来るのよ……」
 せつなが深々と溜め息をつく。これ以上説明する気にもなれない。
「ほら、ラブ、変な表情作ってないで、目覚ましが鳴るまでもう一眠りするわよ」
 二人がひとつの枕に頭を並べた。
「……ねぇ、せつな、これって顔がすごく近くない?」
「いまさら何を言ってるの。わたしたち、一晩中こうだったんだから」
「えーっ、ホントっ?」
 ラブが急に大きな声を上げて、顔を赤らめた。なんだかとても女の子らしいその反応に、せつ
なのほうが逆に焦ってしまそうになった。
「……………………でも、せつなとだったら、いっか」
「 ――― っっ!」
 枕の上に、赤くなった顔が二つ並ぶ。二人の眼差しが至近距離で交差する。
「わたしとだったら……いいの?」
「せつなは……嫌?」
 ラブに向けて、せつながゆっくり首を横に振ってみせた。
 掛け布団の下で、ラブの手がもぞもぞと動いた。せつなの手が、そっと握られる。
 ぬくもりとやわらかさが、繋がった手を通じて伝わってくる。
「ラブの手は……あったかくて気持ちがいい……」
 せつなが目をつむって、幸せそうにつぶやいた。
「わたし、このあったかさを守れるよう、精一杯がんばるわ」
 それを耳にしたラブが、花が咲くみたいに、にこっ、と笑顔になった。
「よーっし、なんだか嬉しくなってきたから、せつなのために朝ごはん作っちゃおっかな!」
「えっ?」
 がばっ、と勢いよく上体を起こしたラブにつられて、せつなも身を起き上がらせようとしたが、
「いいからいいからっ、せつなはまだ寝てて。……だって、あたしを守ってくれるんでしょ? 元
気満タンにしとかなきゃ」
 ラブの両手が優しくせつなの体に添えられ、再びベッドに寝かしつけた。
「……わかったわ」
 淡い苦笑を口もとに浮かべて、ベッドからラブの後ろ姿を見送る。背中に注がれている視線
を感じて、ラブがドアの前で振り向き、軽く手を振ってくれた。せつなも小さく手を振り返す。
「朝ごはん、期待してるわよ」
「まっかせて!」
 笑顔に自身ありげな色を乗せて、ラブが答えた。そして、せつなのほうを見たまま部屋から出
ようとして、思いっきりドアにぶつかる。『ドンッ』と派手な音がした。
「……たははっ、ドア開けるの忘れてた」
「ちゃんと前みて歩きなさい」
 バツの悪そうに笑っているラブへ、せつなが暖かい笑みを向けた。
 ドアの向こうに彼女が消えてから、さっきまで繋いでいた手を顔の前まで持ってきた。
 ラブの手が伝えてくれたぬくもりは、もう冷めてしまっている。でも、せつなの手は、その感触
を今もハッキリと覚えていた。
 このあたたかさは、しあわせの証。
 手の平に残った記憶が薄れてしまわないよう、その手を、そぉっ…と静かに握って目を閉じ
た。
「ラブ ―― わたしが絶対に守ってみせる」
 誓うようにささやいて、可憐に握りしめられたこぶしへ唇を這わせる。ラブのぬくもりを、こぶし
の外側から愛おしむ。
 唇同士を触れ合わせた時と同じく、胸がドキドキと喘いだ。息が、キュウッ ―― と苦しくなる
ような、幸せ。せつなの表情が、ほんの少しだけ恍惚と溶ける。
(ラブ……)
 彼女の名を心の中でつぶやくと、ジ…ン、と甘い痛みが胸に広がった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 テーブルの上に並んでいるのは、普段とさして変わらない朝食だった。
「えーっと、豪勢に……てワケにはいかなかった分、気合だけはたっぷり込めてみましたぁ…」
「ありがとう、ラブ」
 申し訳なさそうな笑顔で尻すぼみに消えていくラブの言葉に、せつなが感謝の微笑みを返し
た。
 しかし、ラブは残念そうな溜め息をこぼす。
「ハァ…、せつなのために美味しいステーキとか用意できれば良かったのに……」
「やだ、ラブったら。朝からそんなの食べられないわよ、わたし」
 せつなが口もとまでこぶしを持ち上げて笑う。
 二人の仲睦まじい雰囲気が気になったのか、ラブと一緒に朝食の用意をしていた彼女の母
が会話に割り込んできた。
「なになに? 二人とも朝からイイコトでもあったの?」
「えへへ〜、お母さんには秘密♪」
「秘密ね♪」
 ラブとせつなが目配せしあって、にっこりと笑顔を作った。
 そのうちラブの父もやってきて、桃園家の朝食が始まった。
 ラブはせつなの反応が気になるのか、食事の邪魔にならないよう遠慮しながら、チラチラと視
線を送ってくる。せつなが次のオカズに箸を伸ばしつつ、目元に笑みをたたえて感想を言っ
た。
「ラブの作ってくれた朝ごはん、おいしいわよ」
「あたしが台所に下りてきた時には、ほとんどお母さんが下ごしらえ終えちゃってて……」
「でも、ちゃーんと込められてるわよ、ラブの気合」
「うんっ! ……気合詰め込みすぎて、お魚ちょっと焦げちゃったけど……」
「あははっ」
 テーブルが朗らかな空気で満たされる。母親が「新婚夫婦みたいね」と、ぼそっ、とつぶやい
て、味噌汁を口に運ぶ。
 もぐもぐと口を動かしていたせつなが、そのつぶやきを鋭く聴きつけて、
(シンコンフウフ?)
 と、聞き慣れない言葉に首をかしげた。朝食が終わってからラブに訊ねてみようと思う。それ
よりも今は、この喉を通ってゆく幸せを大切にしたい。
「あたたかい……」
「えっ?」
 せつながラブを見つめて、幸せそうに双眸を細めた。
「美味しいのはいつもと同じだけど、今日の朝ごはんは、味がなんだかあたたかいの……」
 せつなにとって、『あたたかい』は幸せ。それはラブの身体が教えてくれたこと。
 せつなの口から穏やかな声音が紡がれる。
「ベッドの中のラブの身体と同じくらい、あたたかくて幸せ」
『ブッ!』
 父親が口にしていた味噌汁を小さく噴いた。母親も「あらまあ」と目を丸くして、頬に手を当て
た。
 ガタッ!と椅子の鳴る音。せつなが、突然立ち上がったラブを不思議そうな目で眺める。
「ああああっ……え、えッと……違うよ、お父さんお母さんっ、あたしが寝ぼけて自分の部屋と
せつなの部屋を間違えただけで、変な事してたわけじゃないからっ。ね…ねえ、せつなっ」
 同意を求めてくるラブの迫力にすっかり気圧されて、せつなが思わずコクコクとうなずいた。
「え…ええ、変な事なんてしてないわ。ただ、ベッドの中でラブと抱き合っていただけで ―― 」
「 ―― うわあああああああああっ!!?」
 ラブが物凄い大声を被せてきた。せつながビックリして仰け反る。
 両親は、そんな二人を「ははっ…」という乾いた笑みを浮かべて見つめていた。
 なぜラブがこんな慌てふためいているのかさっぱり分からないせつなは、とにかく彼女を落ち
着かせようと立ち上がって、
「あああ……でもいったいどうすればっ……」
 結局オロオロするばかりだった。

 やがて、せつなは、ラブという少女を通して学んでゆく。唇同士を触れ合わすことの意味も、
好きな者同士で抱き合うことの意味も。そして、軽く頬を染めながら、この日の朝を思い出す。
 ―― ごめんね、ラブ。あの頃はわたし、本当に何も知らなくて。
 まだ朝は早い。せつながラブを起こさないよう、静かにベッドを下りた。
(よしっ!)
 ぎゅっと握った二つのこぶしを胸の高さまで持ち上げた。あの日、ラブの作ってくれた朝食か
ら学んだ。朝ごはんに一番重要なものは気合だと。
(たのしみにしてて、ラブ。すっごくあったかい朝にしてあげる)


(おわり)