黄昏に刻む足跡

 そこは、結界に閉ざされていた。
 休み時間。教室に満ちた明るいざわめきも、その領域を侵すことは出来ない。
 その中にいる二人の女子生徒は無言。彼女たちが纏う空気は、全てを無意味と切り捨てる。
 紅い髪の女子生徒は霧生満、蒼い髪の女子生徒は霧生薫。
 共通して、名工の手で彫り出されたような端整な面立ちと、優美さを絵に描いたようなスタイ
ル。満の方が髪が短く、薫の方が背が高く…と、外見的な相違はその程度だ。
 しかし、それ以上に共通しているのは、容姿の華やかさを虚無に帰すが如く表情の無さ。感
情を否定する冷たい静寂を顔に貼り付けていた。 
 教室の片隅で超然として席に付いていた満が、ふと、凍りついた視線を揺るがせた。真後ろ
の席の薫がそれに気付く。
「どうかしたの?」
 抑揚の無い、人形のような声で薫が訊ねる。満が、表情をわずかに変化させた。顔の皮一
枚の裏に、全てを見下し、あざける微笑を忍ばせた。
「プリキュアが何かしているわ」
 薫にだけ聞こえる声で答える。
 満の視線を、無言で薫が追う。窓際に並んだ席で、二人の女子生徒が、机の上に広げたス
ケッチブックをめくりながら笑みを交わしていた。
 天真爛漫に笑顔を咲かせる日向咲と、澄んだ笑みを優しくそよがせる美翔舞。精霊に選ば
れし伝説の戦士<プリキュア>としての姿を隠し持つ二人の少女。満、薫と明確に立場を逆に
する者たちであり、すなわち、いずれは葬り去る対象である。
「何かしら?」
 口調はさして興味なさそうだったが、薫も咲と舞の動向が気になるようだ。満が席を立ったの
に続いて窓際へと移動していく。
 二人の前に立ち、満がカタチだけの親しみの表情を作って話しかける。
「何をしているの?」
 その声に、咲が嬉しそうな笑みを浮かべて反応した。手に持ったスケッチブックを、満と薫の
前にばばんっ!と広げて、舞の描いた絵を自慢する。
「満、薫、見てっ! この絵、あたしなの。すっごく上手に描けてるでしょっ」
「ちょ、ちょっとやめてよ、咲……」
 舞が照れて顔を赤くし、それを止めようとした。
「えー、舞だって、今まで描いてきた中でも最高傑作だって言ってたじゃない。満と薫にも、いっ
ぱい見せてあげようよ」
 確かに自慢したくもなる出来栄えだった。舞が抱いている咲への強い感情が、そのまま絵に
表れる。多くの線を紡いで精巧に構築された日向咲の姿には、写真に撮るよりもずっと暖かな
魂がこもっている。線画の内に、モデルとなった咲の肌の柔らかさや体温の温もりさえも溶け
込んでいるように見えた。
 だが、満が口にしたのは、やはりカタチだけの賞賛の言葉だった。
「…確かに上手く描けてるわね。すごいわ」
 所詮、絵ごときの下らないお遊び。これもまた彼女たちをプリキュアとして突き動かす原動力
のひとつなのだろうか。
(こんな紙に絵を描いただけで強くなれるなんて、やっぱりよく判らない理屈よね)
 せっかく偵察に来たのだから、訊いておいた方がいいだろう。特に、こっちの日向咲は頭が
弱そうなので、プリキュアのパワーの秘密でも何でも、自分からペラペラとしゃべってくれそうな
気がする。
 ところが、満が口を開こうとしたその瞬間、
「ふ〜ん。そんなにすごいの?」
 薫がおもむろに、咲の手からスケッチブックを抜き取った。
「満、そこに座って」
 一瞬眉をしかめかけた満だったが、思い直して薫の遊びに付き合ってやることにした。すぐそ
ばの席へ悠然と腰を下ろし、適当に脚を組んでみせる。
 薫は、断りもなく舞の席に腰掛けて、さらに無断で筆箱からシャーペンを一本拝借し、開いた
スケッチブックの上にサラサラと流れるように滑らせ始めた。
「うそ…すごい……」
 その作業を目にし、舞が呆然とする。それは、人間では為し得ぬ領域の業(わざ)。なめらか
な描画の手はコンマ一秒の淀みもなく、線一本の乱れすらない。描く手の運びに機械の正確さ
を宿し、目の前にいる満の姿をスケッチブックの上へ、完璧に写し取っていく。
「ま…舞よりもすごいナリ……」
 圧倒的な技量の醸す雰囲気に呑まれ、咲も舌を巻く。
 一分と経たぬ間に、満の姿が描き上がった。スケッチブックを覗き込んだ咲と舞は、その完
成度を前にして声も出せない。
 臨時のモデルを終えた満が、いまだ薫のスケッチに目を奪われている咲と舞に向かって、気
付かれぬよう憫笑を送った。
(ふふっ…。つまり、あなたたちの力なんて、私と薫の前ではその程度のものなのよ)
 そして、絵など下らない児戯だと思いつつも、薫の描いてくれた自分の姿に、少しだけ感嘆の
視線を注いで笑みを浮かべる。
 しかし、描いた当の本人は、いたく気に入らない様子だった。
 自分の絵と舞の絵をじっと見比べた後、描き終えたばかりの満の絵の上に、『シャシャシャシ
ャッ…』と何度もシャーペンを走らせ、黒線で塗り潰していった。
「あぁっ…」
 悲しそうな声を上げて、舞が凍りついた。咲は目を白黒とさせている。
 突然の薫の行為に、さすがの満も反応が遅れた。数秒後、やっとのことで声を絞り出す。
「……上手く描けてたと思うんだけど」
 満の言葉に、薫が小さく首を横に振った。それがひどく弱々しげな動作だったので、満の戸
惑いはさらに深くなった。胸の奥で不安がざわめき出す。
「もう行こう、薫」
 満が薫の腕を引いて立ち上がらせようとした。が、それよりも早く『ガタンッ』と椅子がひっくり
返りそうな勢いで薫が立ち上がった。
「一体何が違うというの?」
 感情のこもらない、威圧的な響き。それが自分に向けられたものだと気付いて、舞がハッと
我に返った。
「えっ?」
 思わず咲が、舞をかばって前に出る。
「ちょっと薫っ、いったいどうしたの?」
 しかし、そんな咲には一目もくれず、舞に向けて言葉を繰り返した。
「私の絵とあなたの絵、一体何が違うというの?」
 チラリと横目で満の方に視線だけを投げ付けて、「もしかして、モデルが悪かったのかしら」と
呟く。
 言葉を返す満の口元が、険悪に歪んだ。
「なんですって?」
「ま、まぁまぁ二人とも、落ち着いて…」
 慌てて咲が二人の間に割って入った。なだめようとする努力も空しく、全く相手にされていな
いが。
 そこへ、絵を描くという行為を否定されたような気になってショックを受けていた舞が、ポツリ
とこぼした。
「……たぶん」
 咲を真ん中に挟んで、満と薫が舞の方を見る。
 舞がはっきりと顔を上げて、薫に言った。
「薫さんは、もっと自分の気持ちを絵にぶつけてみればいいんじゃないかしら」
「…自分の気持ち?」
 薫がきょとんと舞の顔を見返す。
「そうよ。私は、咲としゃべって楽しかったこと、咲と一緒にいて嬉しかったこと、……咲がくれた
色んな気持ちをこの絵に託してみたの」
 そこまで口にして、机の上のスケッチブックに視線を向けた。舞の目元が優しく緩む。
「何度も咲の絵を描いている内に気付いたのは、技術に恃(たの)むだけじゃなくて、もっと気
持ちのままに手を走らせて、一番大好きな咲の姿を自分の絵に描き出していきたいっていう欲
求。咲への気持ちを、絵で表現したいの」
「だからさ…」
 舞の言葉を、満と薫に挟まれたまま放置されていた咲が明るい口調で繋ぐ。
「薫が舞みたいな絵を描きたいって思ってるんだったら、満とケンカなんてしちゃ駄目」
 そういって自然に自分の右手を取る咲を、薫が訝しげに見つめる。しかし、咲は気にかける
こともなく、満の左手も取って、二つの手を一つに握り合わさせた。
「はい、仲直り」
 呆気に取られる、というのは、満と薫にとって初めての体験だった。咲は屈託のない笑顔をこ
ぼしながら、「今度はきっと気に入る絵が描けるよ」と何の根拠もなく薫に保証する。
 薫は危機感を覚えた。氷のように固く凍った自分の感情が、舞の言葉と咲の笑顔がもたらす
ほんのわずかな温かみを前に揺らいでいる。この二人は、世界に滅びを運ぼうとする自分た
ちに一片の敵意も向けることなく、彼女たちの信じる幸せの輪の中に、自分と満を取り込もうと
している。
 薫の胸の奥で、何かが切なげに軋んだ。
「絵なんて、もうどうでもいいわ」
 薫は、その自分の言葉を少しだけ悲しいと感じた。
 満に手を引かれて身を翻す。プリキュアたちを背にして、負け惜しむように小さく唇を噛んだ。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 沈みゆく太陽が、空を紅く焼いている。今日という一日の、終焉が忍び寄る時間帯。
 学校という日常部分を終え、どこへとも知れぬ帰路につく満と舞。太陽の落ちていく方向に向
かって、無言で並び、淡々と足を進める。
 そんないつも通りの光景の中に差異が生じた。薫が緩やかに足が止める。そして、穏やかに
口を開く。
「私の気持ちって……どこにあるの?」
「……………………」
 満が返したのは、長い無言。
 薫の問い掛けを無視したのではない。答えたくても、知識の中に無いものは答えようがなく…
…。
(きっと、彼女たちだったら……)
 プライドが許さなかったが、一瞬だけ、この時ばかりはプリキュアが羨ましいと思った。今の
自分には、ただ薫の隣にいてあげることしか出来ない。
 どこか物憂い表情で、満が薫へと寄り添う。それは、二人の迷子が並んだような光景だっ
た。
 若干の時が過ぎ、偶然に手の甲が触れ合ったのがきっかけとなった。満が躊躇いながら手
の平を返し、そこへ薫がぎこちなく自分の手を重ねる。

 そして、初めてお互いを強く求め合った。

 指を相手の皮膚に食い込ませ、手の感覚が痺れてきても放そうとしない。言葉にならない想
いを全て『手を握る』という行為に詰め込んで、一途に燃え上がらせる。
「薫…」
 少し背の高い薫を見上げて、その名を呟く。
「満…」
 薫の口調は、いつもより随分と優しかった。
 満が微笑む。この緑の郷に来て、初めての心からの笑顔は薫に捧げた。
「薫、手が痛いわ。……でも、絶対に放さないで」
「分かってる。あの太陽が沈んでも、私は満の手を放さない」
 握り合った手を通じて、胸の内に脈打つ生命の響きが、お互いの体へ流れ込んでいく。この
瞬間、満と薫は誰よりも深く繋がっていた。
 夕日を浴びて赤く染まった道へ、二人が並んで一歩を踏み出した。もう心に不安は無い。
 紅い髪の少女は、世界でたった一人にしか見せない特別な笑顔で言った。
「薫、次に描く絵、期待してるわ」
 蒼い髪の少女は、ただ一言だけの、信頼に足る答えを返した。
「まかせて」
 二人が心に刻んだ結束は何よりも固く、二人の信じあう想いは限りなく強く。
 二人の一歩ごとに時は進み、プリキュアとの決戦の日は縮まってくる。それでも満と薫は歩み
を止めない。
 夕日さえも色あせて見えるほどに鮮烈な紅い瞳。やがて来る夜よりも深く澄んだ蒼い瞳。対
照的な二つの眼差しが不敵に笑った。
 望むところよ。
 プリキュアへの殺意を昂ぶらせ、同時に傍にいる者への想いを激しく燃やす。
 一歩一歩、軍靴のような力強さを伴って進む足取りは、二人が紡ぎ出す勝利の未来を確信し
ていた。
 プリキュア、そして、満と薫。共に手を繋いで戦場に臨む少女たち。
 激闘の開幕は、近い。



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