七夕の雨

 厚い雲の裏では既に日没が始まっていた。薄闇が空に走り、世界が夜に沈んでいこうとす
る。
 逢魔が時、往来の隅にほっそりとした体躯の影を落とす少女は、もう10分以上もただ立ち尽
くしていた。
 突然、その背後の空間に歪みが生じた。転移された質量は、すぐに少女の形を取った。目の
前にいる少女の背に流れ落ちる蒼い髪と対照的に、こちらは肩上程度の紅い髪。
「――――こんなところで何をしているの、薫」
 質問ではなく、その無意味な行為を咎めているような口調。霧生満は、苛立たしげな色を瞳
の奥に溜め、ツカツカと足音を立てて、霧生薫へと近寄った。
「満…?」
 ようやく今気付いたといわんばかりの鈍い反応に、満の瞳が怒りを帯びる。生来の紅い瞳
は、いまにも燃え出しそうなほどだ。
 だが、そんな満の反応に、薫は無関心で対応した。視線は、ただぼんやりと一点を捉えてい
た。無視されたと思って眉を逆立てる満の気配にもお構いなく、普段と変わらぬ口調で唐突に
薫がしゃべり始めた。
「今日は七夕っていう日で、ああやって、笹を飾り付けて、願いを書いた短冊をつるすそうよ」
 薫は、さっきみのりから教えてもらった言葉をそのまま口にした。
 道を挟んでその向こう、ベーカリー『PANPAKAパン』の入り口の脇に添えられた慎ましやか
な笹竹は、たくさんの色紙の飾りで楽しげに賑わっていた。そして、それに紛れている二つの
短冊。
「ふん。何を願おうとも無駄よ。どうせ、この緑の郷なんて、もうすぐ滅びる運命なのに」
「それでも…………みのりが笑ってたから」
 皮肉げな満の言葉に対して、馬鹿馬鹿しいほど素直に吐き出された薫の心情。しかも、自身
では気付いていないのだろうが、彼女の口元は微笑みのカタチに崩れていた。
 だらんと垂らした左腕の肘を右手で抱き寄せながら、満は地面に視線を落として小さく笑っ
た。
「薫も何か願い事してくれば?」
「えっ?」
 満は、薫のほうを見ようとはしなかった。しかし、耳に届けられた言葉には、わずかに温かみ
があった。
 その言葉に後押しされるように『PANPAKAパン』へ一歩を踏み出して、薫は振り返って満を
見た。
「……満も一緒にどう?」
 この薫の一言は完全に予想外だったらしく、満はきょとんとした表情で薫を見返した。
「私に一体何を願えというの?」
「さあ?」
 結局は二人並んで『PANPAKAパン』へと向かうことになった。
 ふと、満がドアの外から店の中を覗き込んでみる。以前、日向咲に強引に手伝わされた賑や
かしいこの店も、今日は天気の関係か、客がいないようだ。
「……寂しいものね」
「私は静かなほうがいい」
 薫が笹竹に飾られた短冊を手に取った。みのりが書いた短冊だ。小学生らしい、拙くも元気
な字で『かおるおねえさんみたいにキレイになりたい』と願い事が書かれていた。
 薫の口元が小さく歪む。こぼれた微笑みは痛々しかった。みのりの純粋な思いが薫の胸を
抉る。
(バカな子ね。私なんかより、あなたのほうがずっとずっと可愛いじゃない……)
 満がもう一枚の短冊を手に取った。こっちは、みのりの姉である咲の書いたものだった。
『満と薫が、クラスのみんなともっと仲良くなれますように』
 満の眼差しが小さく揺らいだ。胸に湧き上がってこようとする思いを、必死に殺す。
(何を願ってるのよ。他人の事を気にかける前に、もっと自分の事をちゃんとやりなさい!)
 フッ…と満が手の内にペンを転移させる。短冊なぞ持っていなかったので、色紙の飾りつけ
の裏に願い事を書くことにした。しかし…………。
「ふふ…ふふふ…………」
 おかしくて笑ってしまう。自分たちの願いとは、永遠の滅びの世界。それは、ダークフォール
に属する者全てにとっての宿願である。ならば、ここでそれを書けというのか。
「もし、本当に書いたら間抜けね」
 満は願い事を取り下げ、代わりに咲に向けて、小言めいた言葉を色紙の裏に綴った。
『もう少し美翔舞を見習ってしっかりしなさい』
 書き終えたその内容を見直して、深い溜め息をつく。
(なんで私がこんなことを……)
「どうしたの? 満」
「何でもないわ」
 薫に見られぬよう色紙を表に返して、ペンを渡す。
 薫はもう一度みのりの書いた短冊を手にして、悩んだ。自分の中にある願いは、みのりの未
来を奪うことに繋がっている。
 世界の滅びと、みのりの未来。
 天秤にかけるならば、本当は後者を選びたかった。しかし、ダークフォールの使命にとらわれ
た薫には、それが出来ない。
(ごめん、みのり)
 私は、あなたの未来を祝福できない。ただ、綺麗に成長したみのりの姿を想像して、心の片
隅でそうなってくれることを密かに祈るだけ。
『ありがとう、みのり』
 薫が色紙の裏に書いたのは、決別の言葉。『ありがとう』を別れの言葉にしたのは、『さような
ら』という言葉で断ち切るには、みのりとの短い思い出は、薫にとって暖かすぎたからだ。
 書き終えて、逃げるように背を向ける。
「行こう、薫」
 満に促されて、薫は力無く歩き始める。
 並んで数歩進んで、二人は振り返りたいという想いに駆られた。後ろには、二人の冷たい心
に吹き込む温もりがある。
 咲とみのりの願いは、二人の心の内に小さな幸せを与えてくれた。小さな…とても小さな幸せ
なのに、それは二人の心の中で太陽のように輝いて、結果、暗闇の中に心を置き続けた満と
薫は、そのあまりの眩しさに目をそらすしかなかった。
「ねえ、薫、知ってる?」
 満は、暗く閉ざされた空を見上げて話し始めた。
「彦星と織姫、この二つの星は年にたった一度、この七夕の日にしか出会えないそうよ」
 無言で相づちを打つ薫。
「出会うことによって、幸せが生まれる物語がある。……でも、出会うことによって、不幸を生む
物語もある」
 空を覆う雲が一度だけ低く鳴動した。
 薫もまた空を見上げた。
 二人の視界を埋め尽くすのは、どこまでも続く暗雲。太陽も、星の光も届かない。
「だとしても、私たちは進まないといけない。プリキュアを倒して」
 たった一度の人生なのに、なぜ巡り合ってしまったのか。なぜすれ違うことが出来なかったの
か。
 嘆くことは許されない。ダークフォールの宿命が二人を突き動かそうとする。
 しかし、今だけは、二人はその場にじっと足をとめた。
 雲から雨がこぼれ始める。静かに、ぽつり、ぽつりと世界を濡らしていく。
「薫、ひとつだけ願い事を口にしていい?」
 満は目を空に向けたまま、薫の頷く気配を感じて言葉を続ける。
「ほんの少しの間だけでいいから、手を握らせてほしいの」
 もう一度頷く気配を合図に、満は手を重ね合わせた。優しく握り合う手と手の間で、二人の体
温が暖かさを産む。
「満、私も願い事を言っていい?」
 雨の降り方に相応しく、薫の口調はとても静かだった。
「今だけは忘れていたい。プリキュアのことも、永遠の滅びの世界も。……ただ満とこうして手
を繋いでいられるだけでいい」
 暗い雨は止む気配を見せず、深閑と降り続ける。二人もまた暗い天を仰いで、一言も交わす
ことなく立ち続けた。
 この雲の向こうで邂逅を果たした二つの星は、今、どんな物語を紡いでいるのだろうか?
 空から降る雨が、何度も何度も二人の頬を伝って流れ落ちていった。


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