浮気っ!?

 朝早く、鳥のさえずりを目覚ましにして、二人がベッドの中で目を覚ました。
「おはよう…………ひかり」
 まだ少し呼び方がぎこちない。初めて彼女を呼び捨てにしたのは、つい昨日のことだ。
「おはようございます、ほのかさん」
 ひかりは笑顔で挨拶を返した。そして、掛け布団の下の感触で一晩中繋いだままになってい
た手を、ようやく離した。
 ベッドの中で身を寄せ合って、二人がクスクスと笑いをこぼす。
 ほのかの顔をちょっとドキドキしながら見て、ひかりがイタズラっぽく口にした。
「ほのかさん、とうとう浮気しちゃいましたね」
「そうね。一晩中ひかりと浮気していたなんて、なぎさにバレたら大変かも」
「でも、なぎささんに話すんですよね?」
「もちろんよ。なぎさをね、嫉妬させてやりたいの」
 この話を聞いたら、なぎさがどういう顔をするか、二人で想像しながら、最後にはお互いの顔
を見合わせて、「「プッ」」と一緒に吹き出してしまった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「ふう……」
 胸に溜め込んでいた全ての愚痴を吐き出して、ようやくほのかが一息ついた。
 ひかりの相づちの打ち方が非常に上手く、思っていた以上にしゃべる時間が長くなってしまっ
た。気が付くと、すでに深夜。
「ごめんなさい、ひかりさん」
「いいえ」
 向かい合ったひかりが、にっこりとやわらかく笑った。
 12月に入って寒さが増していくにつれ、こうやってベッドの中で感じる自分以外の体温が、と
ても愛おしくなる。
 ほのかの部屋のベッド ―― ひとつのベッドに、二人が仲良く身体を並べていた。
 本当なら、今、ほのかとベッドを共にしているのはなぎさのはずだったが、昼間の些細な諍い
が、今日の二人の関係に大きな溝を作ってしまった。
 お互いの事が大好きなのに……。ひかりの目からすれば、愛し合っているというのが相応し
いくらいの仲なのに、時折ひどく喧嘩してしまう。
(なぎささんとほのかさんって、うらやましいくらい距離が近いから……)
 だからこそぶつかってしまうのだと、ひかりはそう解釈していた。なぎさとほのかの夫婦喧嘩
を暖かく見守るのにも、随分と慣れてきた。
「……本当にごめんなさい、ひかりさん。今日は泊まってもらっちゃって……」
「いいんですよ。わたしも、ほのかさんといっぱい話がしたかったですし……」
「でも、これ、そもそもなぎさへの当てつけで……」
 昼間、ほのかとの喧嘩の最中に、帰ると言い出したなぎさへ向かって、
「そうね、帰れば? 今日はひかりさんがいてくれることだし、なぎさなんて、いなくても平気よ」
 と、ひかりの肩を抱いて背を向け、素っ気無く言い放ったのだ。この態度が頭にきたらしく、な
ぎさは怒って本当に帰ってしまった。
 今日は、ほのかと一緒に住んでいる祖母が、珍しく家を空けてしまうことになった。だから用
心のため、なぎさは泊り込むつもりで来ていたのだが……。
 一緒に来ていたひかりは泊まる予定ではなかったが、ほのか一人を残して帰るのも心配だっ
たので、アカネに電話で事情を説明した上で、雪城邸に一泊していくことに決めた。
「このパジャマ、ほのかさんとおそろいですね」
「う…ん……」
 歯切れ悪く、ほのかが押し黙る。本当は、今夜なぎさが着るはずだったパジャマ。なぎさが泊
まりに来る回数が増えてきたので、自分のパジャマを新調する際に、全く同じモノをなぎさ用に
買っておいたのだ。
『ほのかと一緒のパジャマ〜』
 そう言って笑ってくれた彼女の嬉しそうな顔を思い出し、ほのかの胸がキュンと痛んだ。
「なぎさ…」
 すぐ隣にひかりがいるにもかかわらず、思わず口を突いて出た。愛しい響きの、名前。
 横目でチラリと恥ずかしそうに彼女の反応を窺がって、ほのかは照れ隠しの笑みを口元に浮
かべた。
 ひかりが黙って笑みを返した。ほのかが切なそうに両目を細め、
「……なぎさ、今頃どうしてるだろう?」
 という呟きを口に乗せた。
「きっと、今のほのかさんと同じですよ」
 ひかりが、ごろりと仰向けになって、ほのかから視線を外して答える。ほのかも仰向けになっ
て、視線を真っ暗な天井へと向けた。
「…………」
 胸が痛くて、言葉が何も出なかった。しかし、胸の内に徐々に増していく切なさが、やがて一
つの言葉となって、泣きそうな声で口からこぼれ落ちる。
「なぎ…さ……」
 胸からせり上がってくる痛みと苦しさ。それらは、大切ななぎさと喧嘩してしまった後悔と、今、
彼女が傍にいないという淋しさ。
 瞳がじわっとぼやけて、目が熱くなる。胸で熱くうずくなぎさへの想いが、どんどんと昂ぶって
いく。喧嘩している相手なのに、それでも彼女のことが心の底から大好きだ。
(なぎさっ!)
 ほのかが片手で口元を押さえて、両目から涙を溢れさせた。押さえた手の下から洩れて、部
屋に響く切なげな嗚咽。
 さすがに心配になって、ひかりが仰向けになったまま、視線を横に走らせた。明り取りの窓か
ら微かに差し込む程度の月光を頼りに、ほのかの横顔を見つめた。
 泣く事で少し落ち着いたのか、ほのかが涙に腫れた目をひかりの方へと向けて、
「ごめんなさい……泣いちゃって」
 口元を覆っていた手をのけて、軽く笑みを浮かべてみせた。
 そして、
「……もうっ! これって全部なぎさのせいなんだからぁっ!」
 泣きながら急にプリプリと怒りだしたほのかの様子が可愛くて、ひかりは申し訳ないと思いつ
つも「くすっ」と笑ってしまう。その小さな笑い声を聞き咎めたほのかが、
「もお、ひかりさんたら! 何が可笑しいの?」
 と、可愛らしい怒りの矛先を彼女に向けた。でも、目は怒っていない。
「ごめんなさい」と謝るひかりに、ほのかがぐっと身を寄せてきた。
「ねえ、ひかりさん、ちょっといい?」
 まるで密談のように、ほのかが耳元へと唇を近づけた。息と共に吐き出される言葉はくすぐっ
たく、ひかりが小さく身をよじった。
 ほのかが、さらに声を細く小さくして、イタズラっぽい声音でひかりの鼓膜を震わせた。
「今夜は、私と浮気してくれない?」
 さすがに「えっ?」と聞き返すひかりのパジャマの袖を、ほのかが指先でつまんで、クイッ、ク
イッと引っ張ってみせた。
(ああ、そういうことですか)
 心の中で安堵の呟きを洩らして、ひかりは、ほのかの『浮気』に応じてやることにした。
 掛け布団の下で、とても自然に力の抜かれたほのかの手。ひかりが思う。いつもこんなカン
ジなのだろうか、なぎささんが彼女の手を握るときは。
 ほのかの、白くてやわらかい手の平。それは、ほのかにとって『なぎさだけのモノ』だ。喧嘩し
ているというのに、それでも大好きだと心から言うことの出来る、世界でたった一人の相手。そ
の彼女と繋がるための、大切な大切な宝物だった。
 そこへ、ひかりの手がそっと重なってきた。そして、優しく握られてしまう。
 ほのかは、今、ひかりと繋がっている。
(どう、なぎさ? 私、今……浮気してるんだからっ!)
 ほのかが後ろめたさを跳ね飛ばし、心の中で強気に呟いてみせた。
 ひかりが、なぎさを心の中でイメージして、ちょっと強めに力を込めてみる。
「……なぎささんは、いつもこんな感じですか?」
「ううん。もっと優しい」
 ひかりが手の力を緩め、もう一度同じことを訊いた。ほのかが黙って頷く。
 ひかりが、今度は別のことを尋ねてみた。
「やっぱり、なぎささんの手のほうがいい……ですよね?」
 この問いに、ほのかは少し躊躇ったのち、観念したように大きく頷いた。
「ひかりさん、わたし……」
 ほのかの声は大きくはないが、とてもハッキリと澄んで、ひかりの耳に心地良く届いた。
「わたしね、なぎさのことが大好き」
 なぜか言っている方よりも聞いている方が恥ずかしいといった不思議な心境で、ひかりが頬
を赤らめた。
 若干トーンの上がった声で、ほのかが続ける。
「喧嘩しているのに、でもね、わたし、今この瞬間もなぎさのことが好きで好きでたまらないの。
今すぐなぎさに会いたい。会って、仲直りしたい。何の気兼ねもなく、好きって気持ちを共有し
合える関係に戻りたい」
 いったん言葉を切って、息を吸う。ようやく、ひかりに聞かせていた自分の言葉が、恥じらいと
なってフィードバックされたのか、ほのかが顔をカーッと赤くしつつ、それでも、
「なぎさのこと……本当に……好きだもん……」
 と、消え入りそうな声でこぼした。
「……………………」
「……………………」
 ひかりは、もう何も言えないほど恥ずかしい。ほのかもまた、自分の言葉によって愧死(きし)
しそうになっていた。
 夜の空気が、彼女たちの恥ずかしさで満ちた沈黙を、優しく呑み込んでくれた。穏やかな静
けさが、二人を包み込む。
 ベッドの上で、二人。手を繋いで、恥ずかしさで顔を真っ赤にして、ドキドキと高鳴っている鼓
動が静まるのを待っていた。
 やがて、ひかりが曖昧な笑みを浮かべつつ、まだ動揺収まらぬ声で、
「ね…寝ましょうか?」
 と、提案してきた。
「そ、そうね」
 ほのかも曖昧に笑みを返して、二人はそそくさと目を閉じようとした。
(あっ)
 忘れていた。ほのかが閉じかけていた目を開いて、ひかりの方を向く。
「おやすみなさい、ひかりさ ――」
 そこでいったん言葉を切って、改めて言い直した。
「おやすみなさい、ひかり」
 ひかりの目が大きく開かれた。そこに湛えられているのは、こぼれんばかりの嬉び。
 その一言で、今よりもずっとほのかとの距離が縮まったような気がした。
「おやすみなさいっ、ほのかさん!」
 今日一日の最後で、とっても嬉しいプレゼントを貰ったひかりが声を弾ませる。そして、ほの
かの手をギュッと握り締めながら、幸せな表情でまぶたを下ろした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 翌日の朝。
 ひかりを見送りに出たほのかが、門の前でばったりとなぎさと遭遇した。
「あっ」
 二人が同時に押し黙ってしまう。その沈黙のせいで、空気が一秒ごとに気まずくなっていく。
 ひかりの見つめる前で、二人が同時に口を開いた。
「あのさっ……」
「そのっ……」
 二つの言葉が空気中でぶつかって四散。今度は二人とも待ちの姿勢に転じて、何も言わなく
なってしまった。
「…………」
「…………」
 ぎこちなく、視線同士が交差して、ゆっくりと逸れた。じれったい時間が二人の間をゆっくりと
流れていく。
 そこに、ひかりが可憐な声で割り込んでいった。
「あ、あの、なぎささん、ほのかさん ――」
 二人の眼差しが、こちらを向く。ひかりが、一歩前に進み出て、
「手を……貸してもらえますか?」
 そう言って二人の返事を待たずに、なぎさの左手を、ほのかの右手を取って、
 そして、
 二つの手の平を、静かに重ね合わせてみた。
「…………」
「…………」
 やはり、何も言えないままの二人だったが、手の繋ぐ ―― それだけで、空気が変わった。先
ほどのギスギスした空気も居辛いと感じたが、この空気も、別の意味でひかりには居辛い。
 なぎさの視線の先には、ほのかだけが。そして、ほのかの視線の先には、なぎさだけが。
 これ以上のおせっかいは必要ないだろう、彼女たちには。ひかりは安心して、二人の邪魔に
ならないように後ずさった。
「うぅ〜〜…ん」
 まぶしい太陽に向かって、思いっきり気持ちよく背伸びしてみる。
(そういえば、結局、浮気にはなりませんでしたね、ほのかさん)
 一晩中ほのかと繋ぎっぱなしだった手の平を見て、ひかりが胸の中でひとりごちた。
(だって、夢の中でほのかさん、あんなになぎささんと……)
 ひかりがキュッと手を握って、その回想を閉じた。
 ようするに……。
 ひかりの目の前で、なぎさとほのかが、不器用に和解を始めた。喧嘩で出来た溝を埋めてい
く作業に入った二人の表情は、新婚夫婦のように幸せそうで、
(確か、こういう時は、こう言えばいいんでしたね)
 なぎさとほのかの笑顔を眼差しに捉えて、ひかりがアカネから教わった言葉を忠実に心の中
で再現した。
(ハイハイ、ごちそうさま!)


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