ここからはじまる

 まばゆい夏の太陽から逃れるように、木陰のベンチに座った。周りに誰もいないので、姿勢
をだらしなく崩し、楽にする。
(そういえば、この辺りって、いつもアカネさんが……)
 視線だけを動かして、タコカフェビーグルのずんぐりした黄色いボディを捜してみたが見つか
らなかった。今日は別の場所で営業しているのかもしれない。
(……まっ、いないほうがいっか)
 ふつふつと心の中で沸いている自己嫌悪のせいか、今は一人でいたい。本音をいうと、ちょ
っと寂しいけれど。
 重い気分で、深々と溜め息をついた。

 原因は、美墨なぎさ。彼女だ。
 昨日、土曜日の夜、ほのかが電話をくれて、買い物でも楽しみながら、一緒に次の研究発表
会のテーマを探さないかと誘ってくれた。昼は、ほのかオススメの店で美味しいランチの予定。
 楽しみに迎えた日曜の朝。待ち合わせの駅から電車に乗り、肩の力を抜いて、お互い大好
きな科学の薀蓄を語り合った。…と、ここまでは予定通り。その後は一気に暗転した。
 街で偶然彼女 ―― 美墨なぎさと出逢った時の、ほのかの嬉しそうな表情。自分に向けてく
れたものとは別格の、輝きがこぼれんばかりの笑顔。
 ちょっと足を止めて、軽く挨拶の会話。すぐに別れを告げて、真逆の方向に歩き出そうとした
二人を繋ぎとめたのは、嫉妬にかられた自分の言葉。
「ごめん、ほのか。私、今日予定入ってたの……思い出したから」
 とっさに嘘を紡ぎ、拒絶の背中を二人に強く向けた。自分が立ち去る事で、ほのかを美墨な
ぎさに押し付ける格好になる。このほうがいいんだ……、と感情が胸の中で荒れる。
 きっとほのかだって、私なんかよりも美墨さんと一緒がイイに決まっている……。
 敗北感がひどく惨めで、勝手にそう思い込んで、二人から走って逃げた。 

「予定なんて……なんにもないよぉ」
 二人には、あとでちゃんと謝らなければと思う。ベンチに腰掛けてから何度目かの溜め息を
ついた。袖なしの腕を撫でる微風はぬるくて、素肌がじっとりとしてくる。
 今日は、ほのかが女の子らしい服装で来る事を予想して、あえてユニセックスなスタイルを意
識して臨んでみた。ノースリーヴのトップスに、ハーフパンツ。色調は控えめ。可愛らしさではな
く、さっぱりした中性的なイメージで勝負に出たのだが……。
(何がしたかったのかな、私)
 綺麗なほのかの横に並ぶ自分の姿を想像して、胸を高鳴らせていたのを思い出す。目を閉
じて、その記憶を振り払った。
(私なんかが美墨さんの代わりになれるわけないのに…………わかってたのにッ!)
 深くうなだれる。肩が震えて、閉じたまぶたから涙が漏れてきた。
「あの……、ユリコせんぱい?」
 聞き知った声だが、すぐに誰かは思い出せない。
 ユリコが顔を上げて、涙で濡れた眼鏡のレンズ越しに彼女を見た。中等部の後輩である野々
宮だ。ユリコが高等部に上がってからは久しく会ってなかった。
 夏らしく、明るい黄色の袖なしワンピース姿に、ユリコと同程度の、肩にかからないくらいのボ
ブの髪。ピンクリボンのついた麦わら帽子をかぶっているせいで見えづらいが、相変わらず左
の髪だけをサイドアップに仕立てているようだ。
 慌ててユリコが眼鏡を外して、手の甲で涙をぬぐった。
「ダメですよ、ちゃんとハンカチ使わないと……」
 控えめな声でたしなめながら、野々宮がハンカチを出して、ユリコの目尻にそっと押し当て、
涙を吸わせた。そのあとで眼鏡のレンズを濡らしていた涙も丁寧に拭き取ってやる。
 なんだか自分のほうが後輩みたいだな、と思いつつ、ユリコが礼を言った。
「あ、ありがと…」
 すぐ隣に野々宮が腰を下ろしてきた。
「失恋……ですか?」
 心配そうに気遣ってくれる声。ズバリ今の心境を言い当てられたユリコは、思わず頷いてしま
ってから赤面した。
「…………」
 恥ずかしさで震えるユリコを見て、とっさに野々宮が気を利かせた。普段の調子に戻って、強
引に話題をそらしていく。
「そういえば、今日タコカフェやってないですね。アカネさん、どうしちゃたんだろう? わたし、お
昼ここで何か食べようと思って来たのに……。ユリコせんぱいも空振りですか?」
「う、うん、空振りっていうか……」
 横目でチラリと野々宮の顔を窺がった。彼女と視線が合う。「はぁ…」と息を小さく吐いて、気
恥ずかしげに笑みを口元に刻んだ。
「……聞いて…くれる?」
 遠慮がちなその言葉に、野々宮が優しい微笑で「ハイ」と答えた。
 ユリコが眼差しをひざの上に落とし、少し沈んだ声でしゃべり始めた。
「あのね、私の失恋の相手って、ほのかなんだ」
「雪城先輩ですかっ?」
 驚いたのか、野々宮の声の抑揚が上がった。でもすぐに声の調子を戻して、
「あっ、でも雪城先輩ならアリです。すっごくアリです。顔もスタイルも綺麗だし、知性的だし、近
くにいるとなんかイイ匂いとかもしちゃいますし、ユリコせんぱいがメロメロになっちゃうのも仕
方ないですよ」
 と、強調してユリコの気持ちをフォローしてくれた。
「メロメロってわけじゃないんだけどね……」
 ユリコが苦笑を軽く頬に滲ませて続けた。
「一応女の子同士だもん。ほのかとは親友感覚だったんだけどね」蔽(おお)いとなってくれてい
る樹の葉枝、その優しい緑を見上げながら続ける。「……でもね、いつの頃からか、ほのかじ
ゃなきゃダメだって思うようになってきたんだ」
 目を瞑って思い出に浸る。ビーカー内の薬液をガラス棒で撹拌する繊細な手付き、天秤で試
薬を量る際の慎重な表情、顕微鏡を無心に覗き込む好奇心に満ちた瞳。いつもそばで彼女を
見ていた。自分が一番彼女の近くにいるという自信もあった。
 ……なのに。
 ユリコの口から、深い溜め息が洩れた。
「好みも相性もピッタリなのに、なんで美墨さんに負けちゃったんだろう……」
 いつの間にか、肌を撫でる生ぬるい風も止んでいた。代わりに、野々宮が麦わら帽子を脱い
で、パタパタと扇いで微風を送ってくれた。
「ありがと」
 頬にそよぐ風の気持ちよさに一言礼を添えて、ユリコが軽く身体の力を抜いた。二人のむき
出しの肩が触れ合う。女の子同士の気兼ねの無さで、そのまま肩を重ね続けた。
「ねえ、野々宮さん、今日ヒマ?」
「特に予定とかは無いです」
「じゃ…さ、私とデートしよっか?」
 何気なく発せられたその一言に、麦わら帽子を扇ぐ野々宮の手が止まった。
 妙な雰囲気になりそうな気配を察したユリコが少し慌てた。
「あ、別にデートって本気で言ってるワケじゃ ―― 」
 だが、ユリコが言い終えるよりも早く、野々宮が言葉を滑り込ませてきた。
「いいですよ」
 クスクスと笑いを忍ばせて、麦わら帽子を被り直しながら答える。そして、悪戯っぽく付け加え
た。「ただし、お昼を奢ってもらえるなら」
 ユリコが淡く苦笑しつつ立ち上がった。
「はいはい、あんまり高いのはダメだよ?」
 野々宮も続いてベンチから立ち上がり、「えいっ」と小さな掛け声と共に、ユリコの手を優しく
握った。手の平が重なる感触に、ユリコがちょっとドギマギしてしまう。
「の、野々……」
「サービスですっ♪」
 野々宮が上機嫌な笑顔で、手を繋いだまま歩き出す。鼻歌でも歌い出しそうな感じだ。
 通りに出て、人目につくようになると、さすがに恥ずかしくなってきた。しかし、何故かやたらと
嬉しげな野々宮に対して、「手を離して」と言う気にもなれなかった。
(……うん、まぁ、デートだし)
 ユリコが空いているほうの手で、眼鏡をクイッとかけ直し、肝を据えた。手を繋いでいるほうの
腕を動かして、こつんっ、と静かにヒジで合図を送る。
 その意図を察した野々宮が、「……」と小さく頷いた。いったん手を離して、ユリコのヒジに、
自分の腕を絡ませた。さっきよりも二人の身体の距離がグッと近くなる。
 なんだか、本当に野々宮が自分の彼女になってしまったような気がしてきた。
「恥ずかしくない?」
 ユリコが優しく訊いてやる。麦わら帽子のつばで顔はよく見えないが、嫌がっている素振りは
ない。やや遅れて、こくんっ、と可愛らしい頷きを返してくれた。
 微かに、シャンプーの香り。ユリコの鼻を一瞬だけくすぐって、すぐに空気に溶けてしまった。
きっと家を出る前にシャワーを浴びてきたのだろう。
 ユリコが晴れ渡った空を仰いだ。普通に歩いているだけで汗ばむ夏らしい陽気。自分もシャ
ワーを浴びて、さっぱりしたいなと思った。
「……二人だったら、ラブホテルとか入れるかな?」
 びくっ!と野々宮の硬直する気配。……いや、私はシャワーとエアコンの涼しさが恋しいだけ
なんだけどね。彼女の過敏な反応に、ユリコが心の中でツッコミを入れておく。
「あ、あの、ユリコせんぱいっ、わたしたちにはまだそういうのは早いと、お……思いますっ」
「冗談だってば」
 ぎこちない足取りになった野々宮に合わせて、二人の歩くスピードが落ちた。からかわれたと
思って怒ったのか、野々宮がほんの少しだけ顔を赤らめて、
「エッチ……。せんぱいの……いじわる……」
 と、小声で抗議してきた。ユリコが声を立てて明るく笑う。

 お昼はそうめんで決まりだった。冷やっこい麺の食感に至福を覚えながら、顔を突き合せる
ようにして今夏の予定を相談した。
 海への行楽は即決定。二人だけの初の思い出作り。思い切って水着もカワイイのを新調しよ
う、という事になった。……そして、問題が起こった。
「ダメです!」
 デパートの水着売り場にて、ユリコがやや地味目のワンピース水着を手に取ろうとした途端、
背後からまたもや却下の声が入った。
「うっ…」
 仕方なく手を引っ込めるユリコ。これでもう何度目だろうか。ジーッ…と自分を監視下に置い
ている威圧的な視線を背に受けながら、何とか妥協点を見出そうと足掻く。
「ね…ねえ、野々宮さん、これなんか結構デザインかわいくない?」
「それもちょっと地味じゃないですか?」
 即座にチェックがきた。
「ユリコせんぱいは、スタイルいいですから、もっと大人っぽい色気のある水着を選ぶべきで
す。たとえば……」
 野々宮が視線を走らせた方向に、ユリコも目をやった。そして、ずれそうになった眼鏡をクイ
ッと上げ、口許を笑みで引き攣らせた。
「向こうにあるのって……水着? 私には、ただの派手な紐に見えるんだけど」
「肌の露出面積イコール女の魅力ですよ。さあ、ユリコせんぱい、勇気を出して」
 背後から野々宮が両手でグイグイと押してきた。必死で足を踏ん張らせて、ユリコがブレーキ
をかけまくる。
「あんなの着るのって、何の罰ゲームよッ!?」
「大丈夫ですよ、ユリコせんぱいなら着こなせますって!」
 微妙にずれた会話を挟んでの攻防が続いた。
 露出魔なんぞに堕ちてたまるか!というユリコの意地と、下手な水着選びで肢体の魅力を損
なうような真似は許さない!という野々宮の意志が、水着売り場の一角で激突した。
 ……………………。
 ……………………。
 ……………………。
 散々もめた末に、大人びた黒のセパレーツに落ち着いた。胸前で蝶結びに絞るタイプの肩紐
無しのトップスと、4分の3バックボトムの組み合わせ。微妙な尻の露出が恥ずかしいが、腰に
パレオを巻くことで何とか我慢できそう。
(……って、私、こんな大人っぽいの、人前で着れるのかな?)
 ユリコの胸のうちで不安が高まる。その隣で、野々宮が無邪気に「早く海に行きたいですね
ー」などと笑ってたりする。こちらには不安要素は全くないらしい。
「ていうかさぁ、野々宮さんはどうすんの? 自分の水着」
「あっ…」
 ユリコの水着選びに夢中になりすぎて、自分の事はすっかり忘れていた。野々宮が水着売り
場をキョロキョロと見渡してから、つっ…と眼差しをユリコへと捧げてきた。
「あの、ユリコせんぱいに選んでもらってもいいですか?」
「私に?」
「…はい」
 強気に出ていた先刻とは違い、随分としおらしい調子で野々宮が返事をする。
 特に断るでもなく、ユリコが周りを見渡して「う〜ん……」と悩む。野々宮に似合いそうな可愛
らしい水着はたくさんあって困ってしまう。それに、彼女の好みもある。
(ま、野々宮さんの買い物なんだし、あまり私が口出しするのもあれかな)
 時間はまだまだあるし、水着選びぐらい、のんびり付き合ってあげてかまわないだろう。
「……やっぱり野々宮さんが自分で好きなのを選びなよ。ねっ? とりあえず、向こうから順々
にカワイイの見てこうか」
 ユリコが手をやさしく握ってきた。麦わら帽子の下で、野々宮の表情が揺れた。
「だ…だめですっ」
 繋がった手に、とっさに抵抗の意思を込めてしまった。歩き出そうとしていたユリコが、戸惑い
を露わに振り向いてきた。
「野々宮…さん?」
「わたし、ユリコせんぱいの選んでくれた水着で海に行きたいんです……」
 ユリコが、服の裾をサワサワといらう感触に気付いて視線を下げると、野々宮が弱々しい力
ながらも、それを『キュッ』と掴んできた。いじらしい仕草で、どう言葉にしていいのか分からない
気持ちを懸命に伝えようとしてくる。
 たおやかな花。
 無意識のうちに、もう一方の手を伸ばして、野々宮の腰に優しく添えていた。手を繋ぐだけで
は支えきれないほど、彼女の身体が折れてしまいそうにか細く思えて……。
 ハッと顔を上げた野々宮の表情が、みるみる赤く染まっていく。この光景、女の子同士が公
然と抱き合っているように見えなくもない。
 遅れて気付いたユリコが、野々宮の腰から慌てて手を離した。
「ご、ごめんっ」
 レンズの奥の双瞳が、完全に落ち着きなくして周りを窺がう。……誰もこちらを見てはいない
が、以後しっかり気を付けようと顔を赤くしつつ反省する。
 くいっ、と繋がっているほうの手が引かれた。ユリコがそっちを見やると、
「えへへ…」
 と、野々宮が恥ずかしそうながらも、ちょっぴり嬉しげな様子ではにかんでいた。
 くすぐったい気分を残して、ユリコがそっぽを向いた。そうしないと顔がだらしなくニヤけてしま
いそうだったから。
 野々宮の手を少し強めに握ってみる。すると、彼女のほうからも強めに握り返してきた。それ
は明らかすぎるほどの意思表示だった。
 ユリコの胸が心地良く高鳴る。
「野々宮さん、私が最高の水着選んであげる」
 眼鏡のレンズが、輝度の高い照明の光を『キラリ』と硬く反射した。科学部所属の沽券にかけ
て、この野々宮という少女に似合う最高の水着を選び抜いてみせるッ!
 まずは水着のタイプに、ユリコの知る限りの野々宮の特徴を編入していく。得られた解は、当
然のように、ツーピースではなくワンピース。推すべきは、大胆さではなく可憐な恥じらいを、
だ。それこそが思春期たる肢体の魅力を最大限に引き出す武器となるはず。
 色合いは清楚な白……優しく散らした花柄がフェミニンな可愛らしさを強める。フリルがもた
らす効果も忘れてはならない。
「……うん、これしかない」
 仕上げに、選定した水着を持って、野々宮に試着室に入ってもらう。待つこと暫し、試着室か
ら出てきた彼女は、ウェディングドレスでも送られたかの如く頬を紅潮させて、ユリコの目の前
でその水着を抱き締めてみせた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 帰り道は、二人とも言葉少なだった。手にしたデパートの紙袋の音ばかりがガサガサと鳴っ
ている。
「……ユリコせんぱい、わたし、やっぱり水着の代金……」
「いいんだってば」
 ユリコの財布の中には、既に一枚の紙幣も残っていなかった。ATMで卸した多額の軍資金
は完全に消滅していた。それでも、彼女なりの矜持は捨てない。
 自分の分はもちろんだが、野々宮の分の水着もユリコがお金を出して買ったのだ。
 二人で思い出を作るための水着を、彼女に送る。決して安くはない金額を代償に貫き通した
ユリコの想い。野々宮にはそれがとても嬉しく、同時に心苦しくもあった。そういえば、今日の昼
食もユリコの奢りだった。
「……あの、わたしの奢りで何か食べていきます?」
 いたたまれなくなって、野々宮がおずおずと訊いてみる。後輩に気を遣われたユリコが、明る
く笑って首を横に振った。
「いいって。それより、ほら、手…繋ごうよ」
 野々宮と同じく右手に持っていた紙袋を左手に移して、彼女の手を取ろうとした。しかし、
野々宮は差し出された手をスルリとかわして、ユリコの細腕に自分の華奢な腕を絡ませた。街
行く人々の中にあって、二人の距離が恋人圏内にすっぽりと収まる。
「あの……ユリコせんぱい……恥ずかしかったらやめますけど……」
「恥ずかしいけど……やめちゃ駄目」
 肌で伝わりあう二人の体温。彼女たちにとって、それは大切な想いの証し。
 他人の目も気になるが、それ以上にただただ二人きりになりたくて、自然と足が人気のない
方へと向かった。
 沈みゆく太陽の時間。空の色が青から蒼へ変わる頃合。二人の今日のスタート地点である
ベンチは、彼女たちが戻ってくるのを待っていたように無人のままだった。
 腕を組んだ二人がゆっくりと腰掛ける。
 野々宮が水着の入った紙袋をベンチの脇に置き、麦わら帽子を脱いだ。その傍らでは、ユリ
コがしきりに自分の紙袋の中身を気にしていた。
「やっぱ大人っぽすぎたかな? コレ」
「ユリコせんぱいのカラダは、もう十分に大人ですよぉ。特に胸とかぁ…」
「うわっ、何その目? イヤラシ……」
 二人が顔を見合わせて笑う。その直後、野之宮が、ユリコの顔の向こうに視点を合わせなが
ら「あーっ!?」と叫んだ。ついで、身を乗り出すように腕を伸ばしながら、そちらを大げさに指
差してみせる。
「ほらほらっ、ユリコせんぱい!」
「えっ?」
 キョトン、とユリコが不意を衝かれた顔で、野之宮の指差す腕を追った。そして、上半身ごと
そちらを振り向いてしまう。
 ――― 彼女の注意を、自分の指差す方向へ逸らすことに成功。背後が完全に無防備だ。野
之宮がクスッと笑い、組んでいた腕を解く。
(ふふっ、ユリコせんぱい隙ありーーっ)
 野之宮が、ユリコの背中に飛びつくみたいに身体を密着させた。さらに、その両脇から両手
をスルリ…と侵入させていった。
「あっ!? こらこらッ!」
 慌ててユリコが声を上げるも遅い。すでに野之宮の両手の平は、乙女のふくらみへと到達。
発育の良い胸の、そのやわらかさをサワサワと撫でて堪能していた。
「わぁっ、やわらか〜〜っ」
 服の上からでも、柔肉の『ふにゅっ』とした重みと、瑞々しい弾力が手触りで味わえる。大人
びた胸の触感に、ちょっと感激する野之宮。ユリコの胸の果実を、やんわりと指に力を入れて
軽く揉んでみた。
「ひっ…ちょ、ちょっと野之宮さんっ、女同士でこんな事……」
「女同士だからオッケーなんですよ。これは親愛のスキンシップですっ」
 ユリコが侵入路となった両脇を『グッ』と締めて抵抗の意志を見せるも、胸を揉んでくる指使
いはとまらない。
「やっ、こら、んッ……ダメだってばっ、あっ」
 胸にじゃれ付いてくる野々宮の指がくすぐったくて、ユリコが激しく身体をよじって悶える。眼
鏡が顔からずれて、落ちそうになる。
「ユリコせんぱい、やっぱり牛乳ですか? ここまで胸をおっきくする秘訣は牛乳を飲む事です
か?」
「何言って……、ちょ…人が来るかもしれないからっ……これ以上…ホントにだめ……」
「あ、せんぱいの声……ちょっと色っぽい?」
「こ…こらぁ……」
 ……本気で怒れないのが悔しい。
 後輩の手でいいように翻弄され、情けなく思う。しかし、相手が相手だけに許せてしまうのが
ツライところだ。育ち盛りの乳房を優しく揉みほぐされ、だんだん気持ち良くなってきてしまう。
 ユリコが微妙に震える手で眼鏡をかけ直し、ピシャリ、と胸を揉む手を叩いた。上気した顔を
取り澄まして、硬い声音で言う。
「ハイ、今日はもうここまで」
「は〜い」
 野之宮が素直に言う事を聞いた。胸を揉むのをやめ、代わりに両腕をウエストに巻きつけて
『ぎゅうっ』と抱きつく。ユリコの体から離れる気はないらしい。
 自分に抱きついてくる腕に、ユリコがそっと手の平を重ねた。「好きにしていいよ」と言いたく
なる。ちょっと過激なスキンシップも、こうやって甘えられるのも、全然悪い気はしない。
「聴診器持ってくればよかったなぁ」
 野之宮が突然そんな事を言い出すので、ユリコが「なんで?」と聞き返す。
「だって、ユリコせんぱいの心臓の音がもっとよく聞こえるじゃないですか」
 そう言って、野之宮がユリコの背中にピッタリと耳を押し付けた。
(心音は背中からだと聞こえないんじゃなかったっけ?)
 ユリコが心の中で首を傾げた。医者ではないので詳しくは分からないが、背中で聞くのは呼
吸音だったように記憶している。心臓の音は前胸部で、などと言ってしまうと、胸の谷間に顔を
うずめてきそうなので黙っておくが。
(でも、私も聞いてみたいかな。野之宮さんの心臓の音)
 それが愛しく思える者の胸の響きならば。ユリコが口許をほころばせながら目を閉じた。二人
の少女がじっと寄り添い、心地良い沈黙に包まれる。
 少し涼しげに吹いた風が、彼女たちの髪と肌を優しく撫でていった。いつまでも続いて欲しい
と願いたくなるような幸福な時間だった。
「ユリコせんぱい……」
 背中越しに聞く、花蕾のように可憐な声音。可愛らしく甘える口調。ユリコが無言で言葉の続
きを促す。
「わたし、ちっちゃい頃から優しいお姉ちゃんがほしくて……。友達よりもずっと仲良しのお姉ち
ゃん……。いつもわたしと一緒で、遊んでくれたり、勉強教えてくれたり……」
 夢見るような呟きと共に、背中に頬を何度もすり付けてくる。ユリコが首を後ろに巡らせて、
野之宮の髪へ優しい眼差しをこぼした
「私がなってあげるよ。野之宮さんのお姉ちゃんに」
 背中に頬を寄せたまま、野之宮がうなずいた。
「ユリコ…お姉ちゃん。ずっと一緒だよ?」
「約束するよ。――― 」
 野之宮という名字ではなく、初めて名前のほうで彼女を呼んだ。そして、視線を空へと向け
た。
(お姉ちゃん……か)
 自分の腰を抱く彼女の腕に指を滑らせながら、気付かれぬように小さな溜め息を洩らした。
ちょっとだけ、また失恋。
(まぁ、いいけどね)
 胸の奥で気持ちが沈みそうになるのを笑って誤魔化す。たとえ『お姉ちゃん』でも、彼女の笑
顔をそばで見ていられるのなら……。
 ユリコの指先がくすぐったかったのか、野之宮の両腕が解かれた。背中から離れていく『妹』
の身体を追って、ユリコが振り返った。ベンチの上に置かれた野々宮の手に、ユリコの手が重
なった。
 二人の視線が交わり、それが引力となる。顔同士が自然に近づいていく。
 まぶたが降ろされ、視界が閉じられる。それでも、お互いの唇の位置は見失わない。
 二人にとって初めてのキス。唇のやわらかい感触に、心が恍惚と酔いしれてしまう。
 胸に広がっていく甘ったるい痺れ。ユリコと野々宮を繋いだ絆の証拠に、唇が離れても、それ
は彼女たちの胸に残り続けた。
 キスの余韻に、潤んだ瞳で、なまめかしい眼差しを交わしあった。
「……ごめんね。妹のファーストキス奪っちゃうなんて、私、ダメなお姉ちゃんだね」
「ううん、いいよ」
 野之宮の目が愛しげに細められた。
「だって、わたしの好きな人って、ユリコお姉ちゃんだもん」
 次の瞬間、目を閉じる暇もなく、ユリコの唇が『ちゅっ』とさらわれてしまった。
 二度目のキスをさらりと愉しんだ野之宮は、自分の水着が入った紙袋を手にとって、それを
胸に抱き寄せた。
「こんな素敵なプレゼントしてもらったら、誰だってユリコお姉ちゃんのこと好きになっちゃいま
すって!」
 クスクス笑って、胸で紙袋を『ぎゅ〜っ』と抱き潰している野之宮のあごの下に、ツッ…とユリ
コの指が這い、軽く上を向かせた。
 重なり合う唇。三度目のキス。
 たっぷり十秒以上もキスを愉しんだのち、離れた唇の片方が、呆れた口調で愚痴を吐いた。
「…ったく、私はお姉ちゃんなの? それとも……恋人?」
「え〜っと、普段はお姉ちゃんで……キスしたりする時は恋人…かな」
 どっちつかずの曖昧な定義。しかし、共通点は『好きという気持ち』なのだから……。
 ま、どうだっていいよね。
 ユリコが深く考えるのはやめにする。どうやら、二度目の失恋は回避できていたらしいっぽ
い。
 相変わらず紙袋を抱き締めたまま立ち上がった野之宮が、「そうだっ」と妙案を思いついて笑
顔になった。
「わたし、この水着、ユリコお姉ちゃんに着せてもらいたいっ」
「ハイハイ、世界で一番大好きな妹の大切な思い出作りのためなら、なんだって協力してあげ
るわよ」
 ユリコも紙袋を手に立ち上がって、野之宮の横に並んだ。すかさず彼女が滑り込むように身
体を寄せて、腕を組んでくる。
「ふふっ…、ユリコお姉ちゃんっ♪」
 そんな彼女の笑顔を今は『お姉ちゃん』の顔であたたかく見つめながら、これから二人でたく
さん作っていく思い出に想いを馳せた。
(ねえ、私たちの夏は、ここから……だよ)
 ちょっとだけ『恋人』の顔になって、嬉しそうに歩く野之宮の横顔を見つめた。


(おわり)


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