あなたに愛されるぬくもりを。 01


 便箋一枚の重みを包み込んだ、かわいらしいイラスト付きの封筒。
 あなたは気軽にそれを手渡そうとするのに、わたしはまるで生まれたての赤ん坊でも受け取
るみたいに、絶対に落とさないよう慎重な手つきになってしまった。
 そんなぎこちないわたしの姿がおかしかったのか、あなたは「ぷっ…」と噴き出して、
 何だか分からないけど……あなたの笑顔につられて、わたしも笑ってしまう。
 ただ笑うことが楽しくて、あなたといつまでも一緒に笑い続けた。
 これはきっと「幸せ」という感触。

 だからその時、わたしは ――― 
 この手の中にあるラブレターの微かな重みが嬉しくて ―― あまりにも嬉しすぎて、あなたに
「ありがとう」と感謝を告げることをすっかり忘れてしまっていた。

 ごめんなさい、ラブ。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 肌をひんやりと撫でる夜気が気持ちよかった。季節が冬に向かいつつ、夜から残暑をぬぐい
去っていくのだろう。部屋の空気も、昼間と違って冷たく澄んでいる気がする。
 東せつなは胸の動悸を鎮めようと、何度もその空気を吸っては吐き……を繰り返す。
 机の上に広げられたトランプのカード。それが示すのは、ある恋愛占いの結果。
 ちらっ、とカードの脇に置かれたラブレターに目をやった。気になって試しに占ってみたら、相
手とは相性ぴったり、と出たのだ。
(何やってるのかしら、わたし……)
 すっかり心がはしゃいでしまっている自分に呆れて、小さく溜め息をついた。でも、その顔に
は占いの結果に満足している色がありありと滲んでいた。
 両目を閉じて、椅子の背もたれに深く背中を預ける。少し落ち着こうと思った。
 麗しく整った目鼻立ちがクールを装おうとするが、白皙の顔(かんばせ)がほんのり上気して
しまっているため、あまり意味は無い。
 赤いパジャマに包まれた細身の肢体は、日々のダンスレッスンのおかげか、洗練された魅力
を具(そな)えていた。少女の身体特有のやわらかさを醸しながら、シャープな冴えも感じさせ
る。
 背をゆったり流れ、両肩の鎖骨にも『ふんわり』と被さっている黒髪は、濡れた黒曜石のツヤ
を見せていた。
 東せつなという少女をカタチ作る美しい造形 ―― その全てがそわそわと浮かれた雰囲気に
ざわめいていた。
(もう一回占ってみようかしら。もしかしたら、今回の結果はマグレという可能性も ―― )
 でも、次も同じ結果ならば……と、そこまで考えて、せつなは「ふふっ」と幸せそうに笑みを洩
らした。さっそく机の上に広げられたままのトランプに手を伸ばすが……。
「せつなー、入るよー」
 おざなりなノックと同時に、ドア越しに響く声。せつなが「わわわっ」と秀麗な面持ちを思いっき
り崩して、大慌てでトランプをかき集めた。
 せつなの焦りを全く余所(よそ)に、遠慮なくドアが開けられる。入ってきたのは、せつなと同じ
パジャマ姿の少女。色は、かわいらしいピンク。
 普段はお気に入りのシュシュで短いツインテールにして、頭の両サイドに元気良く跳ねさせて
いる髪も、今は洗い髪のままのフワッとしたボブ。そのせいか、ちょっとだけ女の子らしさが増
しているようにも思える。
 容姿はごく普通の女子中学生といった感じで、特に可もなく不可もなく。けれど、印象は明るく
て屈託が無い。"元気オーライ!"を地で行くタイプの女の子だ。
 桃園ラブ ―― せつなにとって親友であり、この桃園家で暮らす"家族"であり、そして何より
も、運命の糸が固く絡み合った絆で結ばれた少女。
「な、何か用かしら?」
 サッ、とまとめたトランプを机の片隅に押しやりながら、せつなが不自然なほどニコニコした
表情で訊ねた。その様子に違和感を覚えたのか、ラブが訊ね返す。
「ん…? どうかしたの、せつな?」
「別に。どうもしないわよ?」
 あくまでニッコリと返すせつなをそれ以上疑いもせず、ラブが「ふわぁ…」と小さなアクビを洩ら
して彼女の前を横切った。目的地は、この部屋のベッドだった。
「急に寒くなってきたからさぁ……」
 ベッドの脇に腰をかがめたラブが、掛け布団を軽くめくり上げ、その隙間へ上半身をもぐり込
ませてゆく。「こら、普通に入りなさいよっ」というせつなの声は無視。
 もぞもぞもぞもぞ……。
「……今日はせつなのベッドで一緒に寝かせて。ふわあ〜〜っ…」
 その大きなアクビが終わる頃には、ベッドからはみ出していた両脚もすっぽりと掛け布団の
下に隠れてしまっていた。
「………………」
 せつなが呆気(あっけ)にとられる。
 自分のベッドの上で、こんもりと亀の甲羅みたいに膨れ上がった掛け布団を見つめながら、
しかしすぐに両瞳に茶目っ気のある輝きを添えて、椅子から立ち上がった。
 そっと足音を殺してベッドへ忍び寄り、そして素早く両手で掛け布団をむんずと掴み、
「ラ〜〜ブッ!」
 と、勢いよく引っぺがしてしまう。彼女がこんなイタズラじみた真似をするのは、ラブが相手の
時だけだ。
 猫みたいに身体を丸めて寝入ろうとしていたラブが、「うぅ…」とまぶしそうにせつなの枕で顔
を隠しながらうめいた。
「せつなぁ、電気消して〜〜」
「もう。ラブ、自分の枕は?」
「……ん、あたしの部屋にあるよ」
 ラブはそれだけ言って、ゴロリと寝返りを打って背中を向けてしまった。……せつなの枕をし
っかり胸に抱きかかえたままで。

 面倒だからせつなが取ってきて。 ――― ラブの、ものぐさな背中がそう主張していた。

 せつなが両目を静かに閉じて、口もとを微かに引き攣らせて笑う。
「フッ。いい度胸ね、ラブ」
 次の瞬間、せつなはベッドの上のラブへ躍り掛かっていた。背後から身体を密着させての電
撃戦。くびれた腰に狙いをつけた片手が、スルリ、と回りこんでラブを逃がさないようガッチリ固
定。もう一方の手が、人差し指を垂直に伸ばして照準を定めた。
 ちらり、とパジャマがまくれ上がって、無防備に白い肌を露出させたわき腹へ ―― 。
 ラブが今頃になって「うわっ!?」と悲鳴を洩らした。だが、もう遅い。

 …つんっ。

「ひっっ…!」
 ビクンッ!
 くすぐったさに弱いわき腹への不意打ちに、ラブの全身が小さく飛び跳ねた。
 軽く突かれただけなのに、たまらないこそばゆさが、ぞぞっ ―― とわき腹を這いずった。

(ふふふふっ……)
 悪くはなかった ―― 人差し指の先に感じた柔らかな肉の弾力、そして、過敏とも言えるラブ
の反応。
 せつなの一撃で、ラブは電気でも流されたみたいに身をすくませている。そんな彼女の耳た
ぶへ後ろから唇を近づけ、あえて優しげな声音でささやきかける。
「さあ、お仕置きよ、ラブ」

 つん・つん・つん・つん・つん・つん・つん・つん・つん・つん・つん・つん……ッッ!!!!

「ひゃはははははっ! やっ…せつなっ……やめっ…アハハハっ、ひーっ、せつな、あははっ
……ハハハハハ……苦しっ……ヒャハハハハハハッッ!」
 ぷにっ、としたわき腹の肉の下で腹筋が激しく痙攣しまくる。瞬く間に笑い崩されてしまったラ
ブが、高速でわき腹を突っつき回されながらベッドの上で悶え狂った。
 こそばゆい刺激の責めで笑い殺されてしまいそう。
 びくんっ!… ビクぅっっ!!
 ラブが「ひいいーっっ!!」と一際大きな悲鳴を跳ねさせて、全身を暴れさせた。くすぐったく
て、もう限界。笑わせられすぎて、ラブの両目の端には涙の粒が溜まっていた。
「アハハハッ……やっ…もうせつなっ…ハハハ…だめっ……ヒヒヒッ! ヒーッ、許してぇっ!」
 バタバタともがく手が、突っついてくるせつなの腕を止めようとするが、するり、するり、と上手
くかわされてしまう。もちろん、わき腹への突っつきは休みなく続行している。
「ひゃひっ!? アハハっ、せつな…もお……ひぃーっ、ハハハハハッ……だめ…アハハ……」
 今度は腰に回された腕を外して逃げようと試みた。……が、こんなに笑い狂わされている状
態では、全然力が入らない。
 わき腹の皮膚感覚がおかしくなってきた。くすぐったさの洪水で、ラブの細いウエストがとろけ
落ちてしまいそうだった。
「ひっ…ひーっ、せつな…ハハハっ、お腹が……ヒーッ、苦しい! あひひっ…アハハハハッ、
も…もうダメッ! アハハハッ、ひっ! し…死んじゃううぅっ!」
 ようやくせつなが指を止めた頃には、彼女の腕の中でぐったりしたラブが「…ハァッ、ハァッ、
ハァッ、ハァッ……」と全力疾走後のように荒く呼吸を乱していた。
(さすがにこれで懲りたわね、ラブ)
 ラブの背中にぴったりとくっついたままのせつなも、のぼせたみたいに顔を上気させていた。
ラブほどではないが、少し息が乱れている。ほんのわずかだが、額に汗もにじんでいた。
 狂ったように暴れ悶えるラブの身体を少女の細腕一本で押さえ込むのは、結構大変な仕事
だったのだ。
「ラブ、今度からはちゃんと自分の枕を持ってくるのよ。いいわね?」
 体温の上昇したラブの背中が、すごくあったかい。
 ぎゅっ。
 ラブを逃がさないためではなく、ラブをもっと感じるために、両腕を回して彼女の体を強く抱擁
する。まだ息切れして、激しく喘ぎ続けている彼女の背中で、幸せそうな微笑をこぼした。


 せつなの部屋の明かりが落ち、二人の体が掛け布団のぬくもりに覆われた。
 身体を楽にして仰向けに寝ているせつなの隣で、ラブが背を向けながら枕にしがみついてい
た。
 結局、せつなの枕を共同で使うことになった……といっても、三分の二以上をせつなの頭が
占有し、ラブの頭はかなり端に寄らされていた。枕から頭が半分ずり落ちかけている。
 さっきの狂騒と打って変わっての静けさ。
 せつなは表情に何の感情も載せずに、部屋の暗闇を見上げていた。なぜか、まぶたを閉じ
る気にはなれなかった。
「ラブ、寝ないの?」
 気配で彼女がまだ起きているのは分かっていた。ラブが、せつなに向けた背中をもぞもぞと
窮屈そうに動かしつつ答える。
「せつながあんな事するから眠れなくなっちゃったじゃん……」
「そうなの? じゃあ、とりあえず子守唄でも歌ってくれない?」
「ん〜、でもあたし美希たんほど上手じゃ…ってなんであたしが歌わなくちゃいけないのッ!?」
 どすっ。
 おしくらまんじゅうみたいに、ラブの尻がせつなの腰にぶつかってきた。その肉厚のやわらか
な重みを、せつなが裏返した手の平で押し返そうとする。
(むっ? 意外と重いわね)
 むにっ、とラブの尻を軽くつかんでみる。指に伝わってきたのは、搗(つ)き立ての餅のような
質感だ。ややあってラブが、じとっ…とした目つきになりながら言葉をこぼしてきた。
「…せつなの…エッチ……」
「何言ってるの。女の子同士でしょ?」
 ラブの臀部が優しくペシペシと叩かれる。頭を撫でられた子犬みたいな表情になって、ラブが
腰を戻した。
「……ねえ、せつな……読んでくれた、あたしのアレ」
「まだよ。 ―― だって、きれいに封がされてあるから……開けるのがもったいなくて……」
 せつなが頬をほころばせた。
『あたしも男子だったら、せつなにラブレター出してたかも』
 せつなの脳裏に、先日聞いたラブの言葉が甘く再生される。
 突然同じ中学の男子から貰ったラブレターに、まだこちらの世界の経験が浅いせつなが困惑
して、ラブに相談を持ちかけ…………。
 色々と親身になってアドバイスしてくれた終わりに、彼女の口からこぼれたセリフがそれだっ
た。
 ……正直、その言葉しか憶えていない。ラブがせつなのためにしてくれたアドバイスの内容と
か、その後男子生徒にどうやって断ったのか、そのあたりの記憶は曖昧だった。
 のちに、ラブにたずねてみた所、その時のせつなはすごかったらしい。
『本当にっ? ラブはわたしにラブレターを出したいのね!? 間違いないわね!?』
『へっ? やだ、ちょっとちょーっと、せつなぁぁ、落ち着いてぇぇぇ!?』
 妙に興奮して詰め寄ってくるせつなを、ラブが両手の平を向けてなだめようとする。しかし、そ
の剣幕に完全に圧されてしまい、約束してしまうのだった。
 せつなに、ラブレターを書くことを。
「……けっきょく、せつなへのラブレターって何を書いていいか分からなくて、せつなのいい所を
ね、いっぱい書いちゃった……あはは」
 それってラブレターなの? ―― ひどく肩透かしを食った表情で、せつなが身体の向きを変え
た。すぐ目の前、ピンクのパジャマ姿の背中に身体を寄り添わせる。
「ねえ、ラブ、『愛の告白』は? 『愛の告白』は書いてないの?」
「だって、女の子同士だし……」
「ふ〜ん」
 せつなが何気ない調子で手を伸ばして、ラブの手の平に滑り込ませた。
 すべすべした柔らかい手だ、とラブは思った。せつなの手を優しく握る。
「せつなは……もしかしてあたしのことが好き…とか…?」
「わからない ―― でも、ラブをそういう風に好きになれたら素敵だと思う」
 せつなが、ぎゅっとラブの手を握り返した。
「ラブと一緒にいられる毎日を想像したら、すごく心があたたかいもの……」
 せつながゆっくり両目を閉じた。(ラブは?)と声に出さずに訊き返す。
 せつなの腕が引かれた。握られた手に、さらに被さってきたぬくもり。ラブの両手が、せつな
の手を温かく包み込む。
 夜の澄んだ空気を静かに呼吸したラブが、微笑みながら目を細めた。
「女の子同士でも結婚できたらいいのにね。そしたらあたし、せつなと……それから美希たん
やブッキーとも結婚して、みんなで幸せに暮らせるのに」
「こーら。一夫多妻制なんて、わたしは認めないわよ。わたしとだけ結婚すると言いなさい」
 ぴたり…、とラブの背中に張り付いたせつなが、幸せそうな微笑を浮かべて脅迫してくる。
 パジャマの襟首から覗く素肌に、たっぷりとせつなの秋波が注がれているのを感じて、ラブが
くすぐったそうに笑った。
「だめだよ。みんな大切な人ばかりだもん。誰か一人だけなんて選べないよ」
「それでもおねがい、ラブ、一晩だけでも夢を見させて」
「……………………」
 ラブが両手で包み込んだせつなの手を、そっと口もとまで引き寄せた。何かを祈るような、何
かを願うような仕草だった。
「あたしと、このせつなの手。いつまでも繋がっていられたら……幸せだよね」
 そう言って、わずかに首を巡らせた。目ではなく気配で、背後の ―― せつなの反応を窺う。

「せつな、愛の告白……ほしい?」

 ラブの肩に頬を当て、こくっ、とせつなが小さくうなずいた。それでせつなの意思は伝わったは
ずなのに、ラブが「…ほしい?」と訊き返してきた。どうやら、せつなの口から言わせたいらし
い。
 せつなが恥ずかしそうに瞼を下ろし、綺麗な睫毛(まつげ)を震わせて、深く呼吸した。それか
ら思いきって瞼を開き、可憐な唇を動かして、甘いささやき声をつむいだ。

「ラブの…愛の告白が……ほしい……」

 ゆっくりと、手を包んでいたぬくもりが解かれた。ラブを抱きしめるように残された腕の下で、
彼女が身体を振り向かせた。
 カーテンの隙間から微かに洩れてくる街灯など人工の光が、うっすらと部屋の暗闇を薄めて
いる。ラブの目も、すぐそばにいるせつなの顔が見えるぐらいには慣れていた。
 二人の少女の視線が重なる。どちらの瞳もしっとりと潤んでいる。
 ラブの両手がせつなの背に伸びた。びくっ…とせつなの身体が震えた。でも、すぐに力を抜い
てラブに身を任せる。
「せつな、目を閉じて」
「わ…わかったわ」
 ギュッとせつなの両目が閉じられた。その緊張しすぎな表情へ、ラブが微苦笑をこぼしつつ自
らも瞼を下ろした。せつなの身体を強く手繰(たぐ)り寄せながら、顔を近づけてゆく。
「せつなは、今、夢を見てるんだよ……」
 そう、全ては夢の中の出来事。
「もし将来、せつなに好きな人が出来たら、今夜見た夢のことは忘れて」
 せつなの唇に、微熱を含んだ吐息がかかった。ラブの、ドキドキとしている体温が伝わってく
る。そのせいか、せつなの胸の動悸も苦しいまでに跳ね上がった。
(ラブ……)
 彼女の名をささやこうとした唇が、やわらかな感触に攫(さら)われた。
 ――― それがラブの唇だと理解した瞬間、せつなは何も考えられなくなった。
「…………」
「…………」
 くちづけあう少女たちの時間は、魔法のように止まっていた。
 あんなに高鳴っていた心臓の鼓動さえも、今は聞こえない。ただ、唇が愛しいぬくもりに溶か
されてゆく……それだけをはっきりと感じていた。
 ラブの唇が離れて、ようやくせつなの思考が回復する。唇には、甘ったるい恍惚感が余韻と
して残っていた。
「これが……」
 せつなが瞼を開き、さっきよりも潤んだ瞳を覗かせた。うっすら開かれたラブの両目もまた同
じく。かすかに蕩けながら絡み合う視線は、静かな熱を帯びていた。
「ラブの…愛の告白……?」
「そうだよ、あたしから……せつなにだけの……」
 ラブの言葉が途切れ、再びせつなは唇を奪われた。目を閉じるのも忘れて、強く押し付けら
れた唇のやわらかさに酔う。ラブの唇は、真珠のようにつややかで、興奮の熱にとろけてい
た。
 ちゅっ…と唇を吸われる感触。得も知れぬ何かが、せつなの全身を、ゾクッ ―― と妖しく痺
れさせた。
(ラブがわたしを求めてくれている。このわたしを……このわたしだけを……)
 心の底から、ラブを抱きしめたい、という衝動が突き上げてくる。ラブの身体を誰よりも強く抱
きしめようと持ち上がった両腕は、しかし ――― 。
(あっ…)
 ひどくせつなが動揺している。それに気付いたラブがくちづけを解いた。
「……せつな?」
「ちが…、別になんでもないのっ」
 焦った口調でごまかしながら、腕を引っ込めようとする。…が、それよりも早く、ラブのやわら
かい手に掴まえられてしまう。
 せつなの腕は、ぶるぶるぶるっ…とまるで瘧(おこり)にでもかかったみたいに震えていた。
「ちがうの、ラブ……こわいんじゃないの。わたしっ…わたし……」
 弁解の言葉を詰まらせて、せつなが、じわっ…と瞳をにじませた。今にも溢れそうになる涙
を、ラブの暖かい微笑が押しとどめる。
「わかってるって。大丈夫。初めてのキスだから、すっごくドキドキしてるんだよね。あ……あの
ね、実はね、あたしもさっきからドキドキが止まらなくて……ちょっと震えちゃってるんだ」
「ラブも……なの?」
 言われてみれば、せつなの腕を優しくつかんでいるラブの手も震えている気がする。
「うん。だから、恥ずかしがることなんてないよ、せつな」
 せつなの表情に、ほっ…と安堵の色が戻ってきた。お互いが顔を見合わせ、秘密の悪戯を
共有した子供のようにクスクスと笑い出す。
「なんだか……わたしたちってカッコ悪い。ふふふっ」
「えー、カッコ悪くなんてないよぉ。逆に平然とされてたりなんかしたらショックじゃない? 女の
子にとって、大切な初めてのキスなのに……」
「そんな大切なキスの相手が、わたしでよかったの?」
 せつなのイタズラっぽい眼差しに見つめられ、ラブが頬を染めてはにかんだ。
「あたしの初めて……もらってくれたのがせつなで……けっこう嬉しいかな……」
「幸せ?」
「うんっ、幸せゲットーッ! あははっ」
 明るく笑うラブがせつなの身体にじゃれ付いてきた。強引に抱きしめようとする動きの隙を突
いて、せつなが素早く顔の距離を詰める。
『ちゅっ』
 やわらかい唇同士の接触。
 すぐに顔を離し、イタズラを成功させた子供みたいに瞳を輝かせ、ラブに微笑みかける。
「わたしからも……愛の告白っ。幸せゲットよ、ラブ」
「たっはーっ、やられちゃった〜」
 大げさなリアクションで仰け反るラブの腕の中で、せつなが楽しそうに顔をほころばせ、無邪
気な笑い声を立てた。
(ドキドキが止まらないわ……ラブのせいで)
 せつなの胸の中で、今も心臓が全力疾走している。少し休憩を入れようと思って力を抜いた
身体が、ラブの手に、ぐいっ、と肩を押されて仰向けにされた。
 ラブに対して精神的に無防備になっているせつなは、訝(いぶか)しがる事さえしなかった。身
体の上にラブが重なってきても、あどけないとも言える態度を崩さなかった。
「ねえ、せつな」
 ラブの声がわずかに強張っているのにも気付けなかった。けれど、彼女の雰囲気が微妙に
変化したのを感じ、ふと、ラブの顔を見返した。
「ラブ……?」
「……もっと、ドキドキするようなこと……してみない?」
 表情にやわらかな笑みを残したまま、
 しかし、せつなの瞳を見つめる眼差しは不自然に硬く ――― 。

 ―― 直後、ラブの胸を引き裂いた罪悪感。自分への嫌悪感が一瞬で限界を超える。
「ごめんっ、せつなっ、今の言葉忘れてっ!」
 突然ラブが、バッ、と身を引き離そうとした。
「待って!」
 せつながとっさに伸ばした手が、ラブのパジャマを掴んで彼女の身体を引きとめる。 ―― 
が、ラブはその手を払ってでもせつなから距離を取ろうとする。
 半ば本気で抵抗するラブに、せつなは必死でしがみついた。二つの身体がもつれ合うみたい
にベッドの上を転がる。
「落ち着いてっ、ラブっ!」
 せつなが、パニックを起こしかけているラブに馬乗りになって、仰向けに強く押さえ付けた。逃
げるように顔を背けるラブに、強く視線をぶつける。
「ラブ、あなたさっき……」
「せつな…本当にごめん……もう言わないからっ」
「ちがうっ……ちがうのッ! ラブ、お願いだから聞いてッ!」
 せつなが感情的に声を張り上げて、大きくかぶりを振った。振り乱れた前髪の下から、せつ
なの瞳が真っ直ぐラブを見つめてくる。
「ラブは……わたしともっとドキドキするようなことがしたいのね?」
 ひぐっ、と小さな嗚咽がラブの喉を突いた。彼女の瞳にみるみる涙が溢れてくる。
 せつなとのキス ―― やわらかな唇同士の接触が引き金となって覚えてしまった肉体的な興
奮。中学生最初の年の終わり頃に一人で味わう甘美な悦びを知ったカラダが、せつなをもっと
深く欲(ほっ)してしまったのだ。
 死にたくなるほど恥ずかしかった。羞恥心がラブの心を火のように炙る。せつなにそんな気
持ちを抱いたことが、悲しくて耐えられなかった。
 両目を涙で閉ざして、だから今せつなが、どれほどラブへの愛おしさを募らせて微笑んでいる
のかが見えなかった。
「わかったわ」
 せつなの口から滑り出た簡潔な了承の言葉が、ラブの脳で理解できるまでに数秒を要した。
「…えっ?」
 ラブの目を濡らす涙が、人差し指の背で優しくぬぐわれる。うすぼんやりとせつなの白い顔
が、そして、さも愛しげに細められた眼差しが目に映った。
 澄み通った湖水の結晶 ―― そう思えるほどの美しい瞳が、心を決めて、ラブに視線を投げ
かけていた。
「わたし、ラブともっとドキドキする」
「でも…」
 かすれたつぶやきがラブの唇を割った。しかし、せつながその先を言わせなかった。
「ラブとだから ―― したいの。それが理由。それ以外に理由なんて、いらない」
 そう言いつつも、本当はほんの少しだけこわかった。これから何をするのか ―― せつなは
何も知らない。だから、ラブの手を握って、勇気をもらう。
 ラブは、そんなせつなの目を見て、黙ってうなずいた。まだ瞳は涙に濡れているけれど、もう
泣いてはいない。ラブも心を決めたのだ。
「来て、せつな」
 ―― いっぱいドキドキさせてあげる。