心音 ― こころノおと ― 02

「聞こえる? 私の鼓動」
「うん、ほのかの心臓、すごく力強くて……」
「ふふふっ」
「……毛とか生えてそう!」
「うっ…」
 なごやかな微笑を刻んでいた顔が、瞬時に引き攣った笑顔へと変わった。なぎさの場合、『心
臓に毛が生える』という言葉を(おそらくは豪胆等の意味合いで)純粋に賛辞として使っている
ので怒るに怒れない。
(そもそも心臓に毛が生えるっていうのは、図々しいとか無恥を意味する言葉なんだから……)
 女の子に対して使わないでほしい、と心の中で愚痴をこぼしながら溜め息をつく。でも、初め
ての聴診器で興味津々に鼓動の音に聞き入る彼女を見ていると、愛し子を見守る母のように
表情がやわらいでくる。
(もし、これから私の身に何かあって ―――― )
 ほのかの瞳の色がわずかに沈む。会えなくなっても、という言葉を省略して続ける。
(この音を耳に残していて。これが私の生きた証し。この鼓動を刻んだ回数だけ、あなたを愛し
ました)
 ほのかの手がそっと伸びて、なぎさの髪にふれた。髪に沁み付いた太陽の匂いが、ふわっと
広がる。部活のあとだからか、汗の湿りで少しやわらかい。
 瞳を静かに閉じて、胸の鼓動の変化を夢想する。
 甘い幸せに溶けて右心房に運ばれてきた血液が、右心室から胸にどっと吐き出される。血
液は、なぎさを想う愛しさを溢れんばかりに汲んで、今度は左心房に流れ込み、左心室を経て
全身へ力強く送り出される。
 それは、たった20ミクロンの洞房結節から来る電気刺激に支えられた愛の循環。脈打つ心
臓は、果てることない嬉びに満ちている。

 なぎさを好きだという想いは、私にとって生命(いのち)そのもの。鼓動の響きひとつひとつ
が、あなたへの愛の告白。
 
 彼女と過ごした二年と約半年の日々。すでに一生分の幸福を味わえたような気がする。たと
え、今ここで死んでも、この短い人生に悔いは残らない。
(なぎさのおかげよ。…………ありがとう)
 しみじみと、切なげに、まぶたを開き、なぎさの顔に潤んだ眼差しを捧ぐ。そして、すぐに見つ
めるだけでは物足りなくなる。
「ねえ、なぎさ」
 名前を呼ばれて、なぎさが視線を上げる。見つめ返すほのかの双眸は甘く細められ、唇は可
憐にほころぶ。
「もっと近くで聞かせてあげる」
 優しく手がそよいで、なぎさの頭を自分のほうに引き寄せた。やんわりとした力が加えられた
だけなのに、なぎさの身体は前につんのめるように傾いで、
(わっ…)と思った瞬間、その驚いた顔が軟らかい弾力に受け止められた。すかさず両腕が背
に巻きつけられ、逃げられない体勢になる。
(ん…むむ…、息苦しいっ)
 軟らかい肉に密着して埋もれた鼻と口が、酸素を求めて喘ぐ。『ズゥゥ〜…ハァ…ズゥゥ〜…
ハァ…』という品のない無理な呼吸音がほのかの胸で鳴る。
「あんっ…、やっ、あっ、なぎさぁっ…アッ! やっ…だめっ」
 肌を舐めるくすぐったさに、ほのかが悩ましく表情をしかめる。ゾクッ、ゾクッ、と背を這い上
がってくる甘美な痺れに、反射的に『ぎゅうううっ』と腕の力を強めてしまう。
 拘束ともいえる強固な抱擁が、なぎさを殺しにかかっていた。
(むぐぐぐっ……!)
 今ほど『生きたい』と願った瞬間はない。乳房のやわらかさに溺れながらも、両手でほのかの
肩を掴んで支点にし、あらん限りの膂力を振り絞ってカラダ同士を引っぺがした。
「ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ……」
 半死人の息だ。顔色も少々蒼ざめている。ほのかも同様に顔色をなくしつつ、口許に軽く握
った拳を添えて、
「だ、大丈夫、なぎさ?」
 おずおずと訊く。なぎさは全力疾走後のように荒い呼吸を繰り返しながら、ニコッと微笑んで
みせた。
 表情は怒っていない。でも、眼が笑っていなかった。
 素早く振り上げられたなぎさのチョップが、ほのかの頭をピシッ!と鋭く打つ。
「痛っ」
「凶器にヒトの顔を押し付けないのッ!」
「凶器だなんて……ひどい」
 片手で頭を押さえつつ、綺麗な稜線を描く乳房を、もう一方の手でつるりと撫で上げた。すべ
すべとした丸みの上を指がすべっていく様(サマ)は、やや扇情的。しかし、今はさすがに、おっ
ぱいこわい。なぎさが逃げるみたいに目をそらした。
「だいたい、近づかなくたって、アタシにはちゃんと聞こえるんだから」
 椅子に座り直したなぎさが、耳から聴診器を外した。そして、チェストピースの部分を手持ち
無沙汰に指で弄びながら言う。
「これで聞いたのと同じ心臓の音。……空耳じゃなかったんだ。時々だけどね、離れているの
に聞こえてくるんだ。どくっ、どくっ、どくっ、……って」
 ほのかを見つめる瞳が優しく細められた。
「やっぱり、あれってほのかの鼓動だったんだね。気になって周りを見たら、いつもほのかがい
たもん」
 すぐ近くにいる時もある。かなり遠くにいた時もある。そんなにハッキリと聞こえるわけではな
いし、常に聞こえるわけでもない。
 なぎさの手が、チェストピースをぎゅっと握った。眉間にシワを寄せた小難しそうな顔で続け
る。
「耳に聞こえるんじゃなくて、ほのかの心臓の音を、こう、アタシの身体全体でキャッチしてるっ
てカンジなのかな。……その、非科学的なんだけどさ」
「なぎさ、ズルイ。私には聞こえないのに」
 静かな声音が、ほのかの口から滑り出た。椅子から腰を浮かせ、流れるような自然な動き
で、なぎさのひざの上に座りなおす。細身のカラダが媚態を織りながら、なぎさの背に両腕を絡
める。
「重いよ」
 その言葉に、ほのかが天使の顔で意地悪く微笑む。ワザと足を浮かせて、なぎさの太ももに
全体重を乗せていた。桃のような尻を揺すって、なぎさをイジメてやる。
「降参?」
「まさか」
 なぎさがニッと男の子みたいに笑った。聴診器を机に置いて、次の瞬間、
「きゃっ!?」
 ほのかの身体が軽々と抱きかかえられた。そして、机の上に、優しく、仰向けに寝かせられ
た。机からはみ出している両脚がとっさに閉じて、なぎさに対してガードの態勢をとる。
「やだっ、学校なのよ?」
「先にイジワルなことしてきたの、ほのかじゃん」
 だからイジワルし返す。それに、窒息死させられかけた恨みもある。
「それじゃ、今からうーんと恥ずかしい目に……あわせちゃおっかな〜〜〜」
 なぎさの両手が、腰の脇にふれてくる。くすぐったさに身じろぎにしつつも、慌ててほのかが両
手を伸ばして、なぎさの両手首を掴む。けれど、本気を出している彼女の腕力にはかなわな
い。
 さらに、なぎさが人差し指でお腹の両脇をくすぐってきた。敏感なほのかが背を弓反らせて悶
える。
「あっ、あっ…!」
 なぎさの両手が、おへそのラインを越えて進攻中。一方、下半身のほうでも激しい小競り合い
が続いていた。なぎさがひざを巧みに使って、ほのかの両脚を割ろうとしていた。
 ほのかが涙目になって、なぎさへと訴える。
「だめっ…これ以上……、あっ、だめっ……だめなのっ! なぎさっ…んっ、おねがいだから、
これ以上は……おねがいだからぁっ……!」
「ほのか、恥ずかしい?」
 ほのかが必死に何度もうなずく。それなのに、なぎさの進攻は止まってくれない。ついに、な
ぎさのひざによって、頑なに閉じていた両脚が割られてしまった。なぎさが強引に身体をねじ込
み、その脚を大きく開かせた。スカートが脚の付け根までめくれ上がって、真っ白な太ももが露
わになる。
「……ッッ!」
 ほのかが両目をギュッと閉じて、顔をそらした。もう、それしか抵抗できることがなかった。乳
房の山裾(やますそ)にまで迫ったなぎさの手は、そのソフトクリームみたいな軟らかさを、慣れ
た指使いで揉みしだいている。
 ほのかが観念して、手足から力を抜いた。「いいわよ…」と、なぎさが何か言う前に自分から
言った。力ずくでカラダを攻め落とされるという辱めにも、なぎさが相手ならば怒りは湧かない。
むしろ恥ずかしい事に、ゾクゾクといつも以上に興奮を覚えていた。
「さ〜ってと……」
 なぎさの手が乳房から離れた。ぞくっ!と肌が粟立つような淫らな期待が、ほのかの背に広
がった。唇を軽く噛んで、切なく乱れ始めた呼吸を押し殺す。
 なぎさがモゾモゾと動く気配。そして、ムードにそぐわない明るい声が響いた。
「それじゃあ、再び診察いきまーす」
「……はい?」
 自分の鼓膜に届いた言葉の意味が、本気で分からず、ほのかがポカンとした顔で聞き返し
た。
 なぎさは、すでに聴診器のイヤーピースを耳に装着し、チェストピースを右手に持ってニコニ
コとしている。そこで、ようやく彼女のイジワルな意図が見えてきた。
「もおっ……好きにすればいいわ」
 羞恥で顔を赤く染めながらも、抵抗する気は起こらなかった。聴診器の先端が再びほのかか
の胸を這った。さっき教えたとおりの、心臓の位置。
 なぎさが目を閉じて、聴診器を伝って高らかに響いてくる力強い音に耳を傾けた。
「ふ〜ん、ほのかの心臓……さっきよりも随分と速くなってるね。エッチなことされて感じてる時
って、こんなカンジなんだ。ふふっ」
 胸の下、肋骨の奥に隠された器官にまで辱めが及ぶなんて、想像も出来なかったに違いな
い。特に現在の心拍音は、無理強い同然に組み伏せられて、それでも性的な興奮に昂ぶって
しまっている状態のものだ。ほのかにとっては最大の生き恥である。
 しかも、なぎさは、こういう事に関してだけは抜群の記憶力を発揮するのだ。勉強に関して
は、記憶力なんてものはちっとも使わないくせに。きっと生涯、なぎさが今のこの鼓動の響きを
忘れる事はないだろう。
「ほのかの心臓、なんだか焦れてるみたい。早くエッチの続きして欲しいって、アタシにおねだり
してるよ」
 舌を噛んで死にたくなるくらい恥ずかしいけど、なぎさの言う事は間違いではなく……。
「聞こえてるんだったら、早く……おねがい……」
 口では幾らでもつける嘘も、心臓の音ですぐにバレてしまうのだからと、ほのかは素直になぎ
さを求めた。
「あー、でも学校でするのはダメって、ほのか言ってたっけ?」
 なぎさが意地悪くささやく。ほのかがガマンできず叫んだ。
「いじわるしないでっ!」
 ほのかが柳眉を怒(いか)らせ、涙を溜めた瞳で睨みつけてくる。心臓の切なげな鼓動もいじ
らしく、なぎさの胸が『きゅんっ』と愛しさをそそられた。
「目を閉じて」
「…うんっ」
 ムードたっぷりなささやきに、ほのかが鼻がかった甘い呟きで応じて、素直にまぶたを降ろし
た。真珠のような綺麗なツヤをみせる唇が、なぎさのキスを待ちわびていた。
 けれどもなぎさの唇は、あっさりとスルーして、ほのかの耳たぶを目指す。ほのかがあんまり
にも可愛いから、ほのかのことが大好きだからこそ、ついついイジワルしてしまう。
 耳たぶを『かぷっ』と甘噛みされて、ようやくほのかがなぎさの裏切りに気付いた。
「なぎさっ!」
 キスをかわされたほのかがきつい声を上げるも、閉じられたまぶたがピクピクと震えて、正直
にキモチイイという反応を示した。
 なぎさの唇が、耳の外側を何度もなぞって往復する。時折往復の動きを止めて、すぼめた舌
で耳の内側を舐め回してくる。くすぐったい快感がほのかの耳を蕩かした後も、その執拗な耳
責めはさらに激しさを増して、執拗に続けられた。
「ひっ、あはぁっ…!」
 ほのかが目を見開いて、びくびくっ!とカラダをわななかせた。このままだと耳が蕩けるどこ
ろか溶けてしまう。快感で気が狂ってしまう。
「あぁ……なぎさぁっ、もう耳はだめぇっ!」
 ほのかが組み伏せられた上半身をくねらせて、必死で逃げ出そうともがいた。こらえられない
喘ぎが、幾度となく口を割った。
「やめて…、耳はもう……あっ、あっ、許…ひぁっ! おねがい…やめて……ああぁん」
 静かな理科室に、弱々しく響き渡る悲鳴。なぎさの引き締まった胴でこじ開かれた両脚が、陸
揚げされたばかりの鮎のようにビクッ、ビクッと痙攣する。ほっそりした肉付きの太ももやふくら
はぎの白さが、夕暮れのオレンジの中で官能的に踊った。
 目の端に浮かんだ涙の粒は、今にもこぼれ落ちそうなほど。こんなにもイジメられて、でも、
心の奥で嬉びも幸せも同時に感じている。
(なぎさにならいいのっ……ああっ!)
 眉根を寄せ、悩ましい悦びの表情を作って悶える。愛する人のイジワルに耐えるのも夫婦の
義務だといわんばかりに。
 急に「フゥッ」と細めた息を耳孔に吹きつけられて、ほのかのカラダが、びくんっ!と跳ねた。
「ねえ、今度はほのかの手で、心臓の音聞かせてよ」
 なぎさがチェストピースをほのかの手の平に滑り込ませた。ほのかが「キスしてくれたら」と交
換条件を出して、それを握った。なぎさはすぐに唇を重ねてきた。やわらかで、熱い。
「ンンッ…」
 くぐもった短いうめき。なぎさに唇をむさぼられながら、ほのかが自分の手でチェストピースを
心臓の位置まで持っていく。あわせて、なぎさの手がほのかの下腹部へと伸びた。めくりあがっ
たスカートの端からもぐりこんで、太ももの内側をまさぐってくる。
 とっさにほのかが脚を閉じようと反応したが、なぎさの身体が挟まっているせいで無理。
 いやらしく指を這わせる手が、だんだんと脚の付け根に近づいてきた。恥ずかしいのに、下
着にジワッと潤みが広がっていく。
(やっ……駄目っ、なぎさっ!)
 ほのかの心臓が、さらに速く跳ねる。
 今から一番淫らな状態の鼓動をしっかりと聞かれ、耳に焼き付けられてしまう ―――― 約
束を違(たが)える気はないが、羞恥の許容量が限界を超し、手の動きが凍りつく。
(だめ……やっぱり恥ずかしいよ、なぎさ……)
 躊躇するする彼女を、なぎさが得意の指戯で後押ししてきた。ツンと可憐に勃った乳首を強
めにつまんで、コリコリした固い感触を指で転がす。敏感な部分に快感の鞭を与えて、ほのか
をたまらなくさせてしまう。
(ほ〜らほ〜ら、ほのか、早くしないと、こっちはいつまでもおあずけだよ)
 心の中でそう言いつつ、なぎさがショーツの縁に這わせた指をゆっくり往復させた。こういった
焦らし行為も得意だ。
 ―― いいわ。たくさん聞かせてあげる。
 肌に優しく触れるチェストピースが、ほのかの心音を拾い上げた。『どくっ、どくっ、どくっ、どく
っ、どくっ……』という情欲に煽られたせわしない響きが、なぎさの耳に直接流し込まれる。
 聞く側も、聞かせる側も、共に顔を赤くして、重ね合ったままの唇を震わせた。
(どう、私っていやらしい女の子でしょ?)
 すべてを晒し尽くした解放感。開き直った気分で、なぎさの唇を甘く味わう。気高い命の響き
が淫靡な音の連呼に堕ちても、なぎさに愛してもらえるならば ―――― 。
 なぎさの唇が、そっと離れた。二人の陶然とした視線が交差する。
「下着、脱いだほうがいいよね?」
「スカートもね」
 これ以上湿らせると、帰る時が大変だ。ほのかが片手をスカートのホックにかけるが、興奮
で昂ぶっているせいか、強張った指の動きはぎこちない。頼むまでもなく、なぎさが手助けしてく
れて、ショーツ一枚きりの姿となる。
「なぎさ、こっちも脱がしてくれる?」
「いいよ。ちょっとお尻上げて」
 なぎさの手がするするとショーツを脱がしていく。そして、ショーツが両ひざを通り過ぎたところ
で、「あっ」と何かを思い出したみたいに声を上げた。
「どうかしたの?」
 おっとりと首をかしげるほのかの目の前で、なぎさが誤魔化すように笑みを浮かべた。
「ええ〜っと、その……」
 頬を指でぽりぽりとかく仕草。……何か悪い予感がする。
「アタシ、部室にカバン置いたままだった。もしかしたら、今ごろ志穂や莉奈がアタシを捜してる
んじゃないかな……」
 とんでもないことをさらりと口にして、バツが悪そうに笑う。
 ほのかが凍りついている間に、なぎさがショーツをさっさと脱がしてしまった。靴下と上履きだ
けの姿になった彼女に、なぎさが覆いかぶさる。
「ちょ…ちょっとなぎさッ!? 何するつもりなのっ!?」
「……とゆーわけだから、その…なるべく早く終わらせちゃったほうがいいよね」
(信じられないッッ!!)
 あんまりの非常識っぷりに、ほのかが心の中で呆れて絶叫した。
「ま、待って、もし久保田さんや高清水さんが捜しに来たら ―――― 」
「おーいっ、なぎさなぎさなぎさーーっ!」
 理科室のドアを勢い良くスライドさせて、小柄な少女が理科室に一歩足を踏み入れた。そし
て、そのまま硬直する。その後ろから、長身の少女がひょっこりと顔を覗かせる。
「あーっ、やっぱりなぎさ、ここだったん ―――― 」
 言葉の途中だが硬直。視界には、どんな言い逃れも通用しそうもない光景が広がっていた。
 雪城ほのかも、久保田志穂も、高清水莉奈も、完全に固まってしまって動けない。そんな
寒々とした空気の中、なぎさが耳から聴診器を外して、視線をあらぬ方向にそらした。
 こめかみを冷や汗がじっとりと伝う。めちゃめちゃ気まずい。視線の先に逃げ場などもちろん
ない。仕方なく、なぎさは、いたたまれなくなった顔で曖昧に笑ってみせた。絶体絶命の窮地に
追い込まれると、人間笑うしかなくなる。
「あ、…えっと、すぐ終わるから、二人ともちょっと外で待っててくれるかな?」
「なぎさ」
 絶対零度の声で名を呼ばれ、なぎさが笑顔のまま凍りついた。瞬間凍結されたため、顔に張
り付いた笑みは崩れなかったが、なぎさはすっごく泣きたい気分だった。
「とっとと私のカラダから降りなさあああああああああああああいッッッッ!!!!」
 ほのかの喉から、理科室どころか、校舎一棟を揺るがすほどの怒りの声がほとばしったのは
その直後だった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「ま、でもさ、志穂と莉奈で助かったよ。カバンも持ってきてくれたし……ハハハ」
「…………」
 帰り道。先を歩くほのかの後ろから、なぎさがご機嫌を伺うように、両眉をハの字に下げなが
ら何度も話しかけていた。何度話しかけても今のように沈黙で返されるだけだったが。
 あのあと、情事の名残など微塵も残さぬほど完璧に制服を身につけたほのかが、にっこりと
顔に笑みを湛え、
「志穂さん、莉奈さん」
 と、親しみを込めた声音で、初めて二人を名前で呼んだ。穏やかな笑顔なのに、その表情の
温度は氷点下以下。志穂と莉奈が「「ひっ」」と声をそろえてお互いに抱きつく。
「このことなんだけど、みんなには内緒にしておいてくれないかしら?」
 志穂と莉奈はガクガクと首を縦に振った。死ぬ気で首を縦に振った。これでマズイ所を目撃さ
れた件については解決したわけだが、やっぱり……。
(ここはちゃんとケジメをつけるべきね)
 誰が責めるわけでもない。ほのかの気持ちの問題だった。よりにもよって、科学部の部室で
ある理科室でふしだらな行為に走るなど、真面目にやっている他の部員たちへの裏切だ。最
初に誘惑してきたのはなぎさだが、彼女に責任の全てを押し付けるわけにはいかない。
(家に帰るまで待ちなさいって、私がもっとしっかりすべきだったのよ)
 ほのかが足を止めた。二人は等しく罰を受けねばならないのだ。
「なぎさ」
 前を向いたまま、後ろにいる彼女へと呼びかける。
「は…はい、なんの御用でありましょうか…?」
 恐縮しきった声で、そろりそろりとなぎさが訊ね返してくる。スッと良く通る声でほのかが言っ
た。
「学校でエッチなことした罰として、今日は二人とも晩御飯抜き」
 一秒、二秒、……なぎさが「ありえなあああいっっ!!」と絶叫するのを待ったが、その声が
来ない。
「……あれ、なぎさ?」
 気になって体ごと振り向いてみると、なぎさは呆然とした表情で足を止めていた。まるで電池
が切れたオモチャのロボットみたいに。
(もしかして、立ったまま気絶しているの?)
 両目を開いたまま静止していたなぎさだが、しばらくするとハッと我に返った。ぎこちなく笑み
を浮かべて、こわごわとほのかに尋ねる。
「えーっと、今日は二人とも晩御飯……デミグラスハンバーグ?」
 現実逃避を試みる彼女に対して、ほのかは優しい笑みで繰り返した。
「晩御飯は、ありません」
「ありえなあああいっっ!!」
 今度こそ、なぎさが絶叫した。
(あっ!)
 なぎさが絶望に打ちひしがれる姿を眺めながら、ほのかが耳を澄ましてみた。
『とく……とく……とく……とく……とく……』
 確かに聞こえる ―――― 小さく伝わってくる、生命の響き。晩御飯抜きの宣告を受けたせ
いで、随分と萎れてしまって、途方に暮れた情けない響きだけど。
(間違いない……これってなぎさの……)
 自分にも聞こえた。なぎさの言った通り、その音が身体全体で微弱にキャッチできる。
 間違えようもない。この愛しい響きだけは。百万人の鼓動の中からだって、あなたの心臓の
音を聞き分けてみせる。
「うふ……ふふふふふっ」
 確かに非科学的。でも、世界は科学が全てじゃない。とりあえず、今日は気分的に愛こそ全
てだ。
「さあ、なぎさ、早く帰りましょ。日が暮れちゃうわよ♪」
「忠太郎にドックフード分けてもらおうかな……」
 人間として最低のことを口走っている美墨なぎさの手を握って、雪城ほのかが意気揚々と我
が家へ凱旋する。
 明日の朝ごはんは、とびっきり美味しいものをお腹いっぱい食べさせてあげようと、ほのかは
鈴を転がすような綺麗な声で笑うのだった。


(おわり)