逢春譜 02


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ――― 22歳。


 深夜を回って、勉強に疲れた身体をようやくベッドに横たえた。しばしの休息を取って、そして
また早朝から勉強。共用試験の日が近づくにつれ、集中力が増してきているのを感じる。
 ベッドの中で目をつむり、ラケルが作ってくれた今日の夜食の味を思い出して微笑む。お世
辞じゃなくて、本当に美味しかった。成長したなぁ、かわいい『我が弟』は。
 かつて、わたしが四葉医科大学に通い始めた春に、彼は人生四度目の失恋を体験した。例
によって<女の子を好きになる → 実はその子には好きな相手が>というお約束のパターン
で。
 しかし、その年の夏、ついにループから抜け出したのだ。少年の姿に変身したラケルが、合
戦にでも臨むが如き凛々しさを身に纏い、『捲土重来』の文字が背にプリントされた勝負Tシャ
ツを着て告白に赴こうとした、あの日のまぶしい朝をわたしは忘れない。……うん、さすがにそ
のTシャツはちょっとアレかな、と思って着替えさせたけど。
 なにはともあれ、無事に彼女さん ――― ラケルが妖精の姿で、デレデレと気持ち悪く相好を
崩して宙をふわふわ無軌道に漂っている光景を見ても、引かないで優しく笑っていてくれる素
敵な相手と結ばれ、そして、わたしたちが一緒の部屋で眠る事はなくなった。
 まあ、色々意識するようにはなるよね、ラケルとしても。
 代わりに、ちょくちょく暇をみて、わたしの部屋に泊まりにくるようになったのが、
 ――― 相田マナ。わたしと将来を約束した幼なじみ。

 わたしとマナが恋人としての付き合いを始めたのは、高校二年生の時。
 きっかけは、日曜日にたまたま二人で観に行った映画だった。なぜ、わたしとマナだけでその
映画を観に行く事になったのか、詳しい理由は憶えていないし、映画のストーリーも曖昧にしか
憶えていない。
 映画の内容は、男と女と男 ――― わりとありがちかな?という感じのラブストーリー。
 序盤に軽めのバイクチェイス。そこから中盤にかけては、タランティーノ作品の会話劇を真似
ようとして失敗したみたいな演出をちょくちょく挟んで……と、ここでマナは寝てしまった。わたし
も正直眠くなって半分目を閉じていたくらいだし、マナはそのまま寝かせといてあげた。
 映画の後半は監督が自棄を起こしたのか、それとも危ないクスリにでも手を出したのか、一
気に急展開。内容も、男と女とモヒカンと銃声と爆発 ――― なんでこうなったんだろう?という
感じのアクションストーリーと化してしまった。
 うす暗い街角の路地、待ち伏せしていたモヒカンの悪党たちが姿を現し、主人公の背中に向
けてアサルトライフルを構える。だけど、お見通しだと言わんばかりに落ち着いた態度の主人
公が二丁のトカレフを抜きながら振り返り、それに合わせて、彼の足元から飛び立つ白い鳩…
…。

 一応クライマックスっぽいので、隣のマナを起こしてあげようと思った。そして、わたしは、すぐ
間近で見たマナの寝顔に……不意打ちを食らった。
 見慣れたマナの顔なのに、眠っているせいで表情が緩んで、無防備で、
 それは、たくさんのものを一緒に築いてきた人が、わたしに見せてくれた ――― 無垢。

 意識した瞬間、鼓動がどんどん早まって、冷静でいられなくなった。傾斜をじわじわと昇って
いるジェットコースターの座席に体を固定されたような気分だった。こわいけれど、早くその先
を体験してみたくて、胸が焦(じ)れてくるような……。
 駄目…。
 胸の内でつぶやいて、マナから視線を外そうとしたけれど、出来なかった。
 今まで宝物にしてきたマナとの友情に、別の感情が流れ込んできて混ざっていく。呼吸をする
と肺に切なげな痺れが響く。
 女の子であるわたしが、同じ女の子であるマナを ――― そう考えただけで、まるでイケナイ
場所に足を踏み入れたような胸の高鳴りが、わたしの心臓に甘い悪戯を仕掛けてくる。
 マナとくちびるを触れ合わせてみたいとか、マナの手に自分の手を重ねてみたいとか、正直
に言うと、そんな気持ちも少しは湧いていたはず。でも、そういうのはどうでもよかった。

 わたしがこの胸に感じているのと同じ苦しさを、マナにも感じてもらいたい。
 それが、その時のわたしが望んだ、たったひとつの願い。

 派手な銃声と爆発音をBGMにして、わたしは、眠り続けるマナの顔を静かに見守った。
 映画が終わったあとは、ちょっと強引にマナを誘って一緒に外食。その帰り道、自分の家の
すぐ前まで来たわたしは、帰ろうとしているマナを呼び止めて告白した。

「わたしね、マナが好き」
「…へ?」
「急にゴメンね。わたし、マナが好きなの。……女の子同士だけど、マナの恋人になりたい」
「ええっと、そ…そうだねー、……あはは」
 いきなりだったせいで、マナはまともに受け答えも出来ない。乾いた笑いで返事をごまかしな
がら、逃げるように帰ってしまった。
 …………家に戻ったわたしが真っ先に向かったのはトイレ。中に入ってドアを閉め、鍵をか
け、身をかがめるような姿勢で便座に腰を下ろし、そして真っ赤になった顔面を両手で覆った。
 告白した時は全然平気だったのに、マナの姿が見えなくなった途端、急に死ぬほど恥ずかし
くなったのだ。
 うわあああああっ、なんで告白なんてしちゃったんだろう! わたしの馬鹿! 馬鹿!

 でも次の日には普通に肩を並べて登校して、いつものように生徒会の仕事を一緒にこなし、
共に下校。変わらない日々がまた始まり ――― わたしも変わらずマナの隣にいた。ただ、告
白する前よりも距離は近づいたかな。もちろん体同士の距離じゃなくて……。
 しばらくして、二人でファーストキスを体験。
 休日には腕を組んでデート。追跡してくるレジーナから逃げる逃げる。
 高校最後のバレンタインデー、家の合鍵を埋め込んだ小さな手作りチョコをマナにプレゼン
ト。万が一にもマナが呑み込んでしまわないように、わたしが口移しで少しずつチョコレートを溶
かしながら。そして、チョコの中から出てきた合鍵に面食らっている彼女を「マナがしたくなった
ら……いつでもウチに来て」と甘い口調で誘惑してみせれば効果覿面。その日の夜、二人でキ
スから先の、もっと色々なコトを体験してしまった。
 ――― というワケで、これはもうマナには責任とって、わたしの旦那さんになってもらうしかな
いなって感じで。


 高校を卒業してもマナは『しあわせの王子』を続けていた。今は大学を休学して、四葉グルー
プの系列企業が支援するNGOの海外ボランティアとして、遠い異国の地でがんばっている。く
っついていったレジーナからの近況報告によると、マナの体力と五感の鋭さがだんだん野生動
物に近づいているとか。
 ――― ん…、元気ならいっか。
 予定では来月の頭には帰国するらしいけど……。
 早くまた一緒のベッドで寝たいな、マナと。

 わたしは夢の中でも問題集を開いていた。隣ではマナも同じ問題集を開いていて、わたし
は、わざと身体を彼女に密着させて勉強を教えていた。勉強とは全然関係なしに、わたしの手
はマナの腕や肩を撫でるようにさわって…………。

 浅い眠りだったのか、わたしは寝返りを打ってボンヤリと目を覚ました。ラケルと別々の部屋
で良かった。体の内側が少しほてっている。
 ――― 軽く動かした腕が、ベッドの上で、掛け布団とも枕とも違う感触に当たった。柔らかな
質量を持ったそれは、人間のカタチをしていると直感して ――― 心臓が跳ねた。一瞬で意識
がクリアになって、バッと上半身を起こしたわたしの口から、とっさにある名前がこぼれようとし
た。
「イ……ッ」
 マナは日本にいないから。
 ラケルは別の部屋で寝ているから。
 瞬間的に、消去法でその名前を思い浮かべたのかもしれない。彼なら勝手に部屋に入って
きて、自分が寝たいと思えば許可もなく他人のベッドに潜りこんで寝るようなマネをしでかしても
特に違和感がなくて ――― 。

 だけど、本当に単なる消去法だったのだろうか。
 わたしは ―――――― 、
 わたしは ―――――― 、

 部屋の暗闇にもすぐに目が慣れて、わたしのベッドで寝ている相手が分かった。
 彼ではなく…………マナだった。
 わたしの視線の先で、マナの両目がうっすらと開かれる。まだ眠りが浅かったのだろう。さっ
きのわたしの声で起きてしまったようだ。
 マナがわたしを見上げて、とがめるでもなく、ただ静かに「…時々来てるの?」と訊いてきた。
 もちろん、一度だって会っていない。
 でも、マナに対して後ろめたい気持ちがこみ上げてきて、それをごまかすように感情が熱を
持つ。浮気を感付かれた者が、とっさの詭弁で、自分に向けられた矛先をそらそうとするみた
いに、
 ――― マナだって、いつもレジーナと一緒にいるクセに!
 と、叫びそうになった。 
 かろうじて理性のブレーキがかかってくれたおかげで、その言葉を口にせずに済んだけれ
ど。

 ……わたしが首を横に振ってみせると、マナは、なんだか複雑な表情で微笑んだ。ホッとする
のと同時に、わたしを想って心を沈ませている。
 わたしも、少し複雑な気分になった。
 マナは、わたしを大切に思っているからこそ、わたし以上に願ってくれている。わたしが再び
彼と出逢えることを。……たとえその願いに、一抹の不安がまとわり付いているとしても。
 マナの心を思うと、泣きそうになってしまう。
 本当に…誰よりも強くわたしを愛してくれて……わたしのしあわせの王子…………。
 わたしは再びベッドに横になって、世界で一番愛おしいマナを優しく抱きしめた。
「もう、連絡もなしに突然帰ってくるんだから……。何かあったの?」
「うん、たまたま日本に向かう飛行機があったからね、レジーナに放り込まれた」
「…はっ?」
「あまり六花をさみしがらせるなーって、怒られてしまいましたー。あはは」
 うそっ、レジーナ……、わたしのためにマナを?
 その場面を想像しようとして ――― 胸に湧く自己嫌悪。わたしなんて、常にマナと一緒の彼
女に対して、嫉(そね)みの感情を抱くことすらあったのに。
 もっと早く、彼女の優しさに気付いてあげたかった……。
「第二夫人を気にかけて労わることは、正妻である自分の責務だって、レジーナが急にそんな
変なコトを主張し出して……」
 前言撤回。レジーナ許すまじ。
「結婚もしていないのに、何を勝手なことを……っていうか、マナが帰国したのって、レジーナの
独断じゃないでしょうね?」
「レジーナの独断だけど?」
「……それ、問題になるんじゃないの?」
「大丈夫大丈夫。向こうじゃ、レジーナが裏で実権握ってるから、何の問題にもならないよ」
 うわ、それ自体が大丈夫じゃない気がするけど。 
 もしかして、すでにマナの実権もレジーナに握られてたりとか……。
 わたしがそんな表情(カオ)をしてみせると、マナにひどく受けた。わたしも可笑しくなってきた
ので遠慮せず笑った。ベッドの中で一緒に笑える人がいるって、すごくしあわせだ。

「ねえ、六花」
「ん…?」
 わたしが甘く見つめる先で、マナが何かを言おうと口を開いたけれど、けっきょく言葉を発す
ることなく、そのくちびるを閉じてしまった。
 でも ――― わたしは、マナの口から出てこなかった言葉に対して、しっかりとうなずいた。
「だいじょうぶ、どんなに遠く離れていても、わたしの心はマナだけのものだから。だってわたし
は、あなた専用のツバメ。そうでしょ、しあわせの王子様」

 …………ごめん、わたしはもう、あなた専用のメシ係じゃないの。
 思い出の中の彼に向かって、そう告げた。
 遠い日の記憶。わたしの心の奥深く、永遠に錆びない鎖で繋がれて。
 いつまでも消えないのならば、今からもっと深く…深く、二度と思い出せないほど深く、心の奥
底まで沈めてしまおうと思った。

 マナの手をそっと握って、自分の胸もとまで持ってくる。
 今夜は窒息するまで彼女の愛に溺れたい。
「わたしのパジャマを脱がせて。そのあとは、マナの好きにしてくれてかまわない」
 

 
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ――― 79歳。


 白く清潔な病室のベッドから、開けてもらった窓の向こうを眺める。桜の花は少し前に散って
しまって残念だけど、今日は日差しも良く、たまに吹き込んでくるそよ風もほんのりとあたたか
い。
 すっかり老いた身の命日としては申し分ない。……などと冗談でも口にしたら、マナに怒られ
てしまう。先日、一緒に100歳まで生きようと強引に約束させられたばかりだ。
 マナはさっそく、我が家のお風呂を高齢者用にリフォームし始めた。家に業者さんが来ている
ので、工事が終わるまでのしばらく間、面会に来られないとお昼ごろに連絡があった。
 リフォームが終わる前には退院できると思うけれど……実際どうだろう?
 午前中の検査が終わってしまえば、今日一日、あとはヒマを潰して過ごすだけ。個室なので
話し相手もいないし……。早く家に戻りたいけれど、体が言う事を聞いてくれない。困ったもの
だ。

 別に病気で入院しているワケじゃない。
 ある日、マナに手伝ってもらいながら夕食の準備をしている時のコト。80歳になったらお祝い
に二人でどこかへ旅行しようという話になり、その中で、わたしは彼女の名前を何度もまちがえ
て呼んでいたのだ。
 …………「イーラ」、と。
 二人でしゃべっている間、マナは「イーラ」と呼ばれながらも普段と何一つ変わらぬ笑顔でわ
たしに接していたから、最後まで全然気がつかなかった。話し終わってから、ちょっと引っかか
る程度の違和感を覚え、そこから記憶をさかのぼることで、ようやく気付いた。
 こちらの表情にみたマナが、とっさにおどけて、場の空気をうやむやにしようとしてくれたもの
の、激しく動揺したわたしはショックで倒れてしまい ――― 。
 ……目が覚めると、病院のベッドの上。あれからわたしは、救急車で搬送されてしまったらし
い。ベッドのそばにはマナの姿。意識が戻るまで、ずっとわたしの手を握ってくれていた。心配
かけて申し訳ないと思う以上に、それが嬉しくて涙腺が緩んでしまった。
 倒れたのをきっかけに、めまいがひどくなったので、念のために入院している。……本当にた
いしたことなんてない。そうだ、今年も夏がきたら、マナと一緒に流星群を ――― 。

 青い空をまぶしく感じて、軽くまぶたを下ろしただけのつもりだったけれど、すっかりウトウトし
てしまっていた。どれぐらい時間が経ったのだろう。いつのまにか日差しも陰ってしまって…
…。
 ふと顔を左に向け、窓のほうを見た。
 窓をふさぐように、その縁(ふち)に腰かけて、こちらに背を向けて座っている姿があった。
「イーラ」
「…よっ」
 肩越しに振り向いてみせたイーラが、まるでつい最近あったばかりのように、簡単な挨拶を返
してきた。きれいな金色の瞳は、相変わらずひねくれた猫を思わせて……。
 イーラはすぐに顔を戻して、それっきり黙ってしまう。わたしは何をしゃべればいいのか、全然
分からなかった。そもそもなぜ彼が急に現れたのかも分からない。
 数十年過ぎたというのに、わたしの目に映る彼の背中は、昔と全く変わらない。ただ、しなや
かさすら感じさせる後ろ姿が、今日は何かをこらえて無理しているように見えて ――― 。
「ねえ、イーラ、どこか痛いの?」
 けだるさに侵された上半身をあわてて起き上がらせた途端、グラッとめまいがきた。イーラが
小走りで駆け寄ってきて、わたしの体を支えてくれる。
「オイッ、大丈夫かっ! ……待ってろ、医者呼んでやる」
「いいの、いいの、ほら」
 そう言って、わたしはベッドのヘッドボードと一体化している計器類を指し示す。
「これでちゃんとわたしの体調はチェックされているから。もし異常があったらね、すぐにセンタ
ーに連絡がいって、押っ取り刀で先生が駆けつけてくれるのよ」
 イーラにベッド脇に腰かけてもらい、その背中に上半身を寄りかからせる。少年のように見え
て、大人よりも力強い……安心できる背中。こうしていると、15歳の時まで時間が巻き戻って
いくような気がする。
「イーラは、昔と全然変わらないわね」
「オマエだって、そうだろ」
 79歳のおばあちゃんをつかまえて、何言ってるんだか。わたしが笑おうとすると、イーラが再
び口を開いた。
「プシュケー。昔とおんなじ……綺麗なまんまだ」
 ああ、そうか。ジコチューって、そういうのを見ることができるんだった。
 しかし、その……綺麗とか言われると、こんな歳になっても結構くすぐったいものだ。
 彼の背中で、フフッ、と笑いをこぼす。
「ご飯は食べてるの? 今は無理だけど、退院したらまた何か作ってあげようか? ――― も
うあなた専用のわたしじゃないけれど、それでも久々にメシ係をやってみたいしねぇ」
「本当はオマエ、心のどっかでオレを餌付けしてやろうとか考えてただろ。知ってんだからな」
「ふふっ。どこまでひねくれてるの、イーラ。あの時のわたしはただ、自分の作った料理を美味
しそうに食べるあなたの姿を独り占めしたかっただけよ」
「ハッ、別に美味しくはなかったけどな。タマゴのカラとか入ってたし」
「もおっ…。そんなの一回だけでしょう」
 イーラの背中に体重を全て預けて、両目を閉じた。
 こうやって上半身を起こしているだけでも疲れてしまう。
「ねえ、イーラ、昔の事……なんでもいいから話してちょうだい」
「なんでもいいって……何を話せばいいんだよ?」
 困惑しながらもイーラは訥々(とつとつ)と語り始めた。わたしやマナに色々と邪魔された事、
アイちゃんをジコチューにしようとしてヒドイ目にあった事、レジーナに腹が立った事、ベールや
マーモたちとボウリング場で暮らしていた時の事、リーヴァやグーラの事…………。

 こんなに長く彼の声を聞いたのは初めてだ。
 わたしは途中から相槌を打つことにすら疲れてしまって、それでもイーラが話している間は、
ずっと微笑みを浮かべていられた。
 最後に彼が語ったのは、記憶喪失になっていた時、初めて食べたわたしのオムライスの味。
「……もういいか?」
「あとひとつだけ」
「ん…?」
「あの日のわたしの質問に ――― 本当はどう答えようとしたの?」

 ―――――― イーラにとって菱川六花は何?


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ふぅっ…、と息を吐いてまぶたを開く。
 体がだるすぎて起きていられなくなり、イーラに背中を支えてもらいながら横になったあと、し
ばらく眠らせてもらったのだけれど、窓の外にはまだ明るい青さが広がっている。それほど時
間は経っていないようだ。
 首を動かして、部屋の中を探してみる。やっぱりもうイーラの姿はない。
 ただ、左の手の平には、まだぬくもりが残っている。
 わたしを寝かせてくれたその手を ――― わたしは一体どんな表情で握りしめたのだろう? 
 イーラはひどく穏やかな顔で、両手でわたしの左手を包み込み……そのままわたしが眠るの
を見届けるように、そばに付いてくれていた。
 わたしは左手を軽く握って、胸に押し付ける。
 このぬくもり ――― この宝物が、少しでもわたしの心臓に届きますように。

 
 早く元気になって、
 マナの待つ家に戻ろう。
 これからは、彼女と共に過ごす一秒一秒を砂金のように数えながら、
 約束の100歳まで一緒に生きよう。

 わたしは、あの遠い日の自分の気持ち、そして今日、彼の口から語られた本当の答えを胸
の中の宝箱にしまって、輝く金剛石で出来た鍵を錠前に差し込み、ゆっくりと回した。


(おわり)