プリキュアオーヴァーズDX 04 前編
第四話『小夜曲』
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
慎ましやかな寝息。
自分のベッドで安らかに眠る少女の顔を、ベッドの縁に腰掛けたアカネが優しい眼差しで愛
でた。
まだ掛け布団の下には、添い寝してやったアカネの体温が残っているのだろう。ひかりがそ
の温もりに身体を寄せて、心地良さげな寝顔を見せた。
机の上にふかふかのタオルで作った即席のベッドで、ポルンとルルンがレインボーコンパクト
の姿で並んでスヤスヤと眠っている。
電気を消した薄暗い自室。閉じたカーテンの隙間から洩れてくる太陽の光。家の外では、二
人が取り戻した日常がいつもと変わらぬ姿で営まれている。
(疲れたでしょ?)
アカネの手が伸びて、ひかりの頬をそっと上から下へ撫で下りた。人差し指の先が、真珠み
たいなツヤの唇の端に触れた。指先を滑らせて、その唇をなぞる。
ひかりのまぶたが小さく震えた。そして、うっすらと開かれる。
「……ごめん、起こしちゃった」
アカネが苦笑して、手を引っ込めた。
「ふふっ」と微笑して、ひかりが掛け布団の下から細腕を伸ばしてきた。アカネがまぶたを下ろ
すと、すぅっ…、と唇が優しくなぞられていった。
「気持ちいいですか?」
「くすぐったいよ」
穏やかなやり取り。アカネが目を開けると、ひかりが安らいだ笑みを浮かべていた。
微笑み合って、急にひかりがハッとした表情で上半身を起こした。
「そうだっ! お店……」
そこまで言って、過去にタイムスリップさせられて事を思い出した。この時代にタコカフェはま
だ存在していないのだ。ひかりの表情がみるみる意気消沈してゆく。
「はははっ。今日はお休み、なっ」
深々と残念そうに溜め息をつくひかりの頭を、アカネが優しく撫でて慰めてやる。
タコカフェでアカネと一緒に働く事は、ひかりのとって日々の幸せの糧だった。どんなに仕事
が大変でも、ツライと感じたことは一度も無い。
「たこ焼き……作る?」
その言葉に、ひかりが伏せていた顔をバッと上げた。
「作れるんですか!? 作らせてください!!」
両目を見開いて迫ってくるひかりに、アカネが「う、うん」と気圧されたように頷いた。
(何だかよくワカンナイ勢いがあるなぁ、今のひかり…)
さっそくベッドから降りて、パジャマの両袖を捲り上げているひかり。やる気満々だ。
(まっ、元気だし、いいけどねー)
アカネにとっては懐かしく、ひかりにとっては初めての家。中学生時代、母親と二人暮らしだ
った我が家を懐かしみながら、アカネが前に立って廊下を進む。
……本当はこの家に帰ってくるつもりはなかった。仮初のネクロデウス、そしてヴォイドナーと
いう当面の脅威を退けたとはいえ、奴らが次いつ襲ってくるか分からないのだ。
万が一、母親を巻き込むようなことにでもなったら……。しかし、死と隣合わせの戦闘で精神
的に疲弊している皆をゆっくり休ませてやれる場所を他に知らなかった。
ひかりにシャワーを浴びさせてやって下着は洗濯。今彼女が着ているパジャマと新しいショー
ツは、アカネのものだ。
……ブラジャーに関しては仕方が無い。同じ15歳といっても、アカネとひかりではサイズが違
うのだ。
「えーっと、どこらへんに仕舞ってるんだっけぇ……? おっ、あったあった」
台所をごそごそ探し回って、たこ焼きプレートを見つける。母親が若い頃大阪見物に行った
際に手に入れた南部鉄器の大業物級。
アカネの後ろからそれを覗き込んで、ひかりが感嘆の溜め息を洩らした。
「これは……すごい……すごいです!」
「でしょ? あとは、千枚通し……無いか。じゃあ、代わりに竹串か何かで……」
「ありますよ」
「へっ? ―― のわぁっ!」
振り返ったアカネが仰け反る。ひかりの右手に逆手で握られた凶器……もとい千枚通しが、
餓えた光をギラリと反射してきたのだ。
「あっ、すみません。あの……わたし、いつでもたこ焼きが作れるように、愛用の千枚通しを制
服の裏に仕込んであったんです」
にっこりと微笑み、胸前にまで上げた千枚通しを、両手でやわらかく包むように持つ。部屋を
出てくる時に少し遅れたのは、これを取り出していたためか。
(それって見つかったら警察に逮捕されるんじゃ……)
迷ったが、何も言わないでおく。
アカネが冷蔵庫を開いて、中を見渡した。
「さすがにタコなんて買って無いよねえ。まぁ、具はチクワとかソーセージでもいっか」
アカネが己の妥協にうなずいた。そして、間髪入れずギョッとした顔でひかりを見た。
一瞬、『いつでもたこ焼きを作れるように美味しいタコを制服の裏に仕込んであったんです』と
か言いながら新鮮な蛸を差し出してきそうな気がしたからだ。
ひかりがキョトンを見返してくるのを「…あはは」と曖昧な笑いで誤魔化して、冷蔵庫へと向き
直った。
(アタシ……今思いっきりひかりを変人扱いしたなぁ……)
心の中でゴメンナサイと謝っておく。そんなアカネの背後では、ひかりが真剣な表情で、新鮮
な蛸を常に持ち歩く方法を模索していた。
――― それから一時間と少しあと。
二人のいなくなった部屋で、『ボフンッ』『ボフンッ』とエーテル煙を散らして、ポルンとルルンが
実体化した。
ポルンが暗い寝室を見渡して、「アカネもひかりもいないポポ」とこぼした。心細げに近づいて
きたルルンの手を、そっと握った。
「大丈夫ポポ。ポルンがついてるからこわくないポポ」
「……おなか空いたルル」
遠慮がちに口にするルルン。ポルンがうなずく。
「アカネに言って、何か食べさせてもらうポポ」
時計を見ると、午後五時を大きく回っていた。ずいぶんと長く眠っていたらしい。もう、お昼ご
飯を通り越して、晩ご飯の時間だ。
二人が仲良く机から、ぴょんっ、と飛び降り、身軽に着地する。美味しい匂いの漂ってくる台
所のほうへ自然に足が向かう。
……と、ちょうどその時、
「ただいま〜、あっ、アカネ帰ってんのぉ?」
玄関から聞こえてきた声に、ルルンが反応した。
「アカネの声ルルっ」
てててっ…とルルンが短い足で駆け出す。ポルンが後を追おうとして、首を傾げた。声の主が
アカネならば『アカネ帰ってんのぉ?』なんて言わない。気付いたポルンが短い足でダッシュ!
「ルルンッ、似てるけど違うポポ! 待つポポ!」
ポルンの叫びを背後に、ルルンが「ルルル〜っ♪」といつものように飛び跳ねて、女性の胸
へと飛び込んでいった。
「おわっ」
女性が、思わず両腕で抱くようにルルンをキャッチ。
「アカネ〜、おなか空いたルルッ♪」
ルルンはまだ気付いていない。そして、女性の足元では、ようやく追いついたポルンが青い
顔で見上げていた。
こざっぱりショートに決めた髪の下の風貌は、過去に飛ばされる前の藤田アカネにそっくりだ
った。オフィススーツを着慣れた細身の体躯からは、シャバに揉まれてきた女の逞しさがにじん
でいた。
左の前髪を留める銀のヘアピンへ、こつん、と左手のコブシを当てて、しばし考え込む。
意志の強さを真っ直ぐ覗かす瞳も、今は困惑に揺れていた。
「……え〜っと、あんたら、宇宙人ってやつ?」
ポルンが『普通の人に見つかったら厄介だから気をつけるんだぞ』とアカネに言われていた
のを思い出した。ますます蒼ざめながら必死でごまかす方法を考える。
動いている所を思いっきり見られたワケだから、今さらヌイグルミのフリをしてやり過ごすのも
無理だ。ならば……、
「ひ、久しぶりポポ。いとこのポルンポポ…」
「いねーよっ。地球外生物のいとこなんざ」
とっさにポルンの口をついたごまかしの言葉に、即座に否定の言葉が重ねられた。だが、ル
ルンの大きな黒い瞳を覗き込んだ女性が「いや、待て」と続ける。
「この瞳……嘘を言ってるような目には見えない。…うん、これはちゃんと毎月返済してくれる
真っ当な債務者の目だ。あたしにゃ分かるよ」
言ったのはポルンであって、ルルンは何も言ってない。しかし、そこにツッコむことなく、女性
は勝手に得心しながらブツブツとこぼし始めた。
「たしか叔父貴が南極で物体Xと闘ったっていう武勇伝をよく話してたけど……まさか宇宙人と
の間に子供までこしらえてたとはねぇ。……宇宙ってやつは、やっぱ広いわ」
天井を仰いで宇宙的なスケールに思いを馳せた女性が、靴を脱いで家に上がった。
「そうだ、あんたらメシは? まだだったらウチで食ってく?」
右手でルルンを優しく抱きながら、親しげな笑みをポルンとルルンに振り撒く女性。もはや警
戒心のカケラもいだいていないようだった。
そして、台所。
「いや〜、なんかウマそうな匂いしてるじゃん」
軽口と共に女性を見て、そして腕に抱かれたルルンを見て、アカネとひかりが絶句した。
女性は、二人のそんな様子を全く意に介することなく、ルルンの長い耳先のフワフワを手持
ち無沙汰な左手でぽふぽふ転がしながら、初対面であるひかりへ極上の笑みを向けた。
「こりゃどーもどーも、今度はかわいいおじょうさんか。なんだかワカんないけど、今日のウチは
賑やかでいいねー。…って、そこのゴリラ娘はそろそろ動物園に帰ンな。顔見たくないから」
「ひかりぃ、ちょっと千枚通し貸して。おふくろが両目潰してほしいってさァ」
流暢に綴られた軽口を、アカネが微かにドスを含ませた口調で殺しにかかった。びきっ、と耳
には聞こえない音を立てて台所の空気が張り詰める。
ちっ、という舌打ちに続いて、女性の表情に張り付いていた笑顔が拭いとられた。そして、ひ
かりの時とは正反対の声質で毒づく。
「なんだ、ゴリラじゃなくてあたしの娘か。もしくはあたしの娘みたいなゴリラかな? ま、どっち
でも大差ないけどね」
「ゴリラを馬鹿にするな。おふくろ以上に知的な生物なんだから。手話とか出来るんだから」
「あたしだって手話ぐらい出来るよ? ほら、こーやって、ひょいひょいと……ハイ、出来た、
『東京タワー』!」
「見えない糸であやとりやっただけじゃん、どこが手話なんだ……」
「ん、なんか違ったか?」
「違ったっていうか、おふくろの存在自体が生まれてきたこと自体が間違ってるンだけどねぇ」
「口に石つめて黙らせるぞ。つーか、オマエっていう存在自体、もいっぺんあたしの子宮から人
生やり直せ。今度は尻の穴から産み落としてやっから」
「出産の際に大腸をちょうちょ結びにしてやるよ」
険悪な視線同士がぶつかり合う。そして、嵐の前触れのような沈黙が訪れた。
(お、おふくろということは、この人……アカネさんのお母さん? でも、どうして喧嘩……?)
露骨に感情をむき出しにした母子は、激突寸前だった。状況に全然ついてゆけないひかりが
混乱して、オロオロとうろたえる。
――― が、まだ自分から自己紹介と挨拶をしていない事に気付いて、慌てて姿勢を整えた。
「あっ、あの、こちらこそ初めまして。九条ひかりと申します、お母さま」
礼儀正しく深々とお辞儀をするひかりの背中の上で、母子の視線が壮絶に火花を散らして交
差し、次の瞬間には、すっかり和やかな停戦ムードを醸していた。
「あっ、これはどうもご丁寧に、ひかりちゃん」
アカネの母が、こちらも深々とお辞儀を返す。それから、家宝の壷でも扱うみたいに、抱いて
いたルルンを、そぉっ、とテーブルの上に降ろしてやった。
「ところでアカネ」
テーブルに置かれた大皿にどっかんと積まれたたこ焼きの山へ、母親が呆れたような目を向
けた。
「なんでか知んないけど、たこ焼きがじゃらじゃらフィーバーしてるじゃん。もったいないからパ
チンコ屋かどっかで景品に換えてもらってきなさい」
「何言ってんの。これが今日の晩ご飯だよ」
「こんな大量に食えるかいッ!」
語気のきつい、その声に弾かれたように、ひかりがサッと頭を下げた。
「すみませんっ、わたしがつい夢中になって作りすぎてしまって!」
「えっ? …あっ、いいんだよ、ひかりちゃん。あたし、お腹ぺこぺこだったからさぁ」
アカネの母の声は、見事なまでに一転して猫撫で声になっていた。
「待っててねー。お風呂上がったら、あたしがアカネの分までバンバン食べ尽くすから!」
明るい声で言い終えて、オマケに小粋なウインクひとつ。鼻唄を口ずさみながら台所から去っ
てゆくアカネの母の背を、残された者たちが四者四様の感想を胸に抱いて見送った。
「すごいお母さんですね……」
「ああ。アレから産まれてきたの、時々後悔したくなる」
アカネがげっそりとした調子でつぶやいた。
ポルンがひかり手を借りてテーブルに上がり、間違ってアカネの母の胸に飛び込んで以来ず
っと緊張状態だったルルンに寄り添った。
「大丈夫ポポ?」
「……びっくりしたルル」
ルルンが大きな目をぱちくりさせて答えた。
「でも、すごくやさしく抱っこしてくれたルル」
そのルルンの言葉を受けて、ひかりがにっこりと笑った。
「やっぱり、アカネさんのお母さんですね」
「よしてよ…」
アカネが居心地悪そうに顔をしかめた。
みんなで仲良くテーブルを囲む、家族団欒の夕餉……のような光景。向かい合って座るアカ
ネと彼女の母親の空気が何だか微妙なままなので、ひかりはちょっと落ち着かない。
会話の鉾先は、常に自分へと向けられていた。風呂上りのビールをぐいっとあおって、アカネ
の母が色々と訊いてくる。
ひかりちゃんてアカネの同級生?家どこ?部活は?スリーサイズは?彼氏いるの?いない
んだ、じゃあウチに嫁に来る?等々。
ひかりの隣に座るアカネはむっすりと押し黙って、ひたすらたこ焼きの山を攻略にかかってい
た。まるで母親を無視しているかのように。
ポルンの無垢な眼差しが、アカネと母親とを行き来した。ふと、その口から素朴な疑問がこぼ
れる。
「ふたりはケンカしてるポポ?」
とっさに息を合わせて、無理やり笑顔を作るアカネと母親。二人同時にテーブルへ身を乗り
出して、がっちり肩を組んでみたりする。
「ん…んなわけないじゃん、世界一の仲良し親子だよ。ねえ、おふくろ」
「そうだよ、ほら、アカネ、一緒に歌でも歌え。ら〜らら〜らら〜♪」
テーブルを共にする、幼い子らへのぎこちない気遣い。
その勢いで、即興の親子漫才が始まった。
例えるなら、火薬庫の中でのキャンプファイヤー。賑やかながらも、いつ爆発するか分からな
い。現に二人の浮かべる晴れやかな笑顔とは裏腹に、幼いポルンとルルンには解らない高度
なレベルで、互いへの痛烈な皮肉の応酬が始まっていた。
(あああ……アカネさん、それは言いすぎ、……お、お母さまも落ち着いてっ、手がグーのかた
ちでブルブル震えてますけどっ……!?)
ひかりがだんだんと蒼ざめて、でも二人をどう抑えたらいいのかわからず、ハラハラと焦りだ
けが募ってゆく。
――― でも。
ひかりの口もとが、自然とほころんでしまう。この空気 ――― 楽しい。
「ふふっ、二人ともうらやましいぐらい息ピッタリですね」
花蕾からこぼれたような、可愛らしく澄んだ声。しかし、それが無理をして和気藹々の雰囲気
を作っていたアカネと母へのトドメになるとは。
ピシリッ…と二人の笑顔に亀裂が入った。だが、ポルンとルルンの手前、笑顔を崩さぬよう、
ぴくぴくと引き攣らせながらも必死で耐える。
オブラートで包んだ牽制の言葉をぶつけ合いつつ、両者が組んでいた肩を解いて戦線を離
脱。自分の椅子へと撤退していった。
食卓の空気が、また以前の微妙な感じへと戻ってしまった。ひかりの視線が、困惑気味にア
カネと母親の顔を往復する。
「あの…」
両眉をハの字に下げて、申し訳なさそうに声を上げたひかりに対し、アカネの母親が静かに
首を横に振った。あんたのせいじゃないよ、という優しい仕草。
そして、溜め息を軽くついてから、犯した罪を告白するように小声でこぼした。
「気に入らないんだよ。こいつ、いっつもあたしの心配ばっかしてるからさ」
そう言って微かに唇を尖らせ、そっぽを向く母親に、アカネも苦々しい顔で言い返す。
「気に入らないんだよ。おふくろ、いっつもアタシに心配ばっかさせるから」
言い終えて、やはりこちらもそっぽを向いた。
たこ焼きを食べる手を止めてしまったポルンとルルンへ「…ごめんな」と小さな声で謝罪が投
げかけられた。母子で声がすごく良く似ているので、どちらが言ったのか分からない。
「……お母さまは危険な仕事をしていらっしゃるんですか?」
ひかりが表情を曇らせて、興味からではなく、純粋に心配して訊ねた。ひょいっ、と肩をすくめ
て、アカネの母が答える。
「ちょっとした金融業。たまに借金の取り立てでトラブルがあるけど些細なもんよ」
「些細? 取り立て先の酒場丸々一つぶっ壊したくせに」
アカネの指摘に、母親が遠い目をした。
「ああ…、あの夕暮れから夜明けまでやってた酒場な。でも、アレは正当防衛だぞ? 店員全
員が牙むいて襲いかかってきたんだから」
「逃げろっ! 警察に通報しろっ!」
「貸した金返してもらうまえに逃げてどうすんだよ。そういや、あの街中霧だらけになった時なん
てすごかったぞ!」
アカネの母が、その時の事を思い出して笑った。
「借金回収した帰りにスーパーに寄ったら、霧がブワーって出てきてサ。…で、霧の中から変な
蛸が攻めてくるわ、おっきい虫がスーパーのガラス壁にバンバンぶつかってくるわ、栄養ドリン
ク買いにちょっと薬局行ったら蜘蛛だらけだし、スーパーに戻ったら変なオバちゃんが宗教広
めてるし……」
凄まじい内容をサラッと口にしたあと、「片っ端から全部ぶっ飛ばしてまわったけどな」とアカ
ネの母がたわいも無いことのように続けた。
「お母さまっ、その変な蛸についてもう少し詳しくっ」
「おっきい虫……カブトムシポポっ? カブトムシポポっ?」
アカネの母の話に、ひかりとポルンが目を輝かせていた。
「えーと、確かねぇ……」
二組の期待に満ちた視線に応え、アカネの母が身振り手振りを交えて、憶えている限り事細
やかに話していく。
途中でポルンが「ポルンも見たいポポッ!見たいポポッ!」と大声で駄々をこね始めて、ひか
りがなだめる事態となったが…。
「……そういやさ、アカネ、あたしの槍なんだけど、知らない? 家ン中捜したのに全然見つか
らなくってさぁ。あんなデカい代物がどっか行っちゃうとも思えないんだけどねぇ」
アカネが一瞬だけ箸を止めて「ああ…あの十文字槍…」と洩らした。そして、たこ焼きの山に
箸を運びつつ答えた。
「今、洗濯物干すのに使ってる」
「勝手に物干し竿にすんなッ!」
アカネの母が、箸を持ってないほうの手の平を『バンっ!』とテーブルに叩きつけた。その音
にポルンとルルンが驚いたのを見て、バツが悪そうに微笑みながら謝る。
「ご、ごめんねー、ポルンちゃん、ルルンちゃん」
「だいたいおふくろ、おもいっきり銃刀法違反じゃない、あれ。いつか警察に逮捕されるよ?」
「いざとなったら、あんたがあたしの代わりに自首しな」
「やだね。だいたい何で捜してるの、あんな物騒な槍」
アカネの母が、ハァ…と珍しく疲れたような溜め息をこぼして、片手で肩を揉んだ。
「今日さぁ、取り立てに行った先で、やたらガタイのいいカニ面のオッサンに、ウチの客が血祭
りにあげられててねぇ。腹立ったからオトシマエつけてやろうと思ったんだけど…」
アカネの母が渋面になった。
「アイツ、肩に載っけた変な銃ドカンドカン撃ってくるし、投げ網使うわ、槍持ってるわ」
「何それ? どっかの国の特殊部隊?」
「さあ? …って言うより、手品師だな。信じられるか? アイツの姿、最初はガラスみたいに透
け透けだったんだぞ。あたしが飛び蹴りかましたら正体現しやがったけど」
「おふくろ、人間が透けるわけないじゃない。それは昨日の酒が残ってたんだ」
アカネの母が神妙な面持ちになって、あごの下に軽く握ったコブシをあてて「そうかもな」とう
なずいた。
「とにかくこっちの武器は護身用のモンキーレンチだけだったからなぁ、追い払うだけで精一杯
でさ。使い慣れたエモノが手許にあったら絶対勝ってたのに…くそぉ」
悔しそうな溜め息を挟んで、アカネの母の話は続いた。撃退したあとすぐに瀕死の客に応急
処置を施して病院に駆け込んだこともあり、客はギリギリの所で命を繋ぎとめたとのコト。その
説明に、ひかりがホッと胸を撫で下ろした。
「ま、そーゆーワケで、こっちも面子潰されかかった以上、このまま終わりっていう選択肢はな
いんだ。あんにゃろに宝蔵院流無双三段を喰らわしてやるッ!」
「あのね、おふくろ……」
アカネが呆れたように口を開いた。もう、そのあとに続く言葉が出てこない……。
ひかりも心配そうに眉をひそめるが、それも一瞬だった。
表情を切り替えて、ひかりがアカネの母親と視線を重ねあった。
「心配されるのはお嫌なんですよね? お母さま」
オリーブグリーンの眼差し ――― そのやわらかな圧力に「まあな…」と返した母の声には、
微かにだが気圧されたような響きが混じっていた。アカネが驚いて隣のいるひかりの顔を見つ
めた。
ひかりが柔和だが、決然とした表情と声で続けた。
「だったら、ここでわたしとアカネさんに約束してください。――― 何があってもケガをしたり、命
を危険に晒したりしないと。
この約束をしていただければ、わたしたちは二度とお母さまを心配しません」
毅然と言い切った。
正面からぶつかってくる視線。アカネの母が『ふうん…』と心の中で楽しげに洩らして、両眼を
細めた。この少女をちょっと試してみたくなったのだ。幾多の債務者の背筋を凍りつかせてき
た女帝の威圧感を以ってひかりの視線を迎え撃ってやる。
けど、ひかりの眼差しはたじろがなかった。華奢な身体つきとは裏腹に、意思にはとても強い
芯が通っているらしい。
(この子、可愛らしい顔のわりに……)
アカネの母が口端をわずかに苦笑の形に歪めた。彼女の威圧的な眼光は、ついに少女の
瞳に湛えられた穏やかさを崩す事ができなかったのだ。
食卓に短い沈黙が降りた。
そして、それをぶち破って豪快に響き渡るアカネの母の快笑。
アカネの母が身体を乗り出し、手を伸ばしてひかりの頭を掴んだ。ひかりの頭部が前後にガ
クガクと揺さぶられる。乱暴に撫でられているのだと気付いたのは数秒後。その頃には、アカ
ネの母の大笑いもやんでいた。
アカネの母が、少し身を屈めて、ひかりと視線の高さを合わせた。
「約束する」
簡潔に、はっきりと告げた。彼女の瞳の色に嘘はない。どこまでも突き抜けてゆく真っ直ぐ
さ。心奪われたように、ひかりがそれに見入ってしまった。
ややあって、ひかりが顔を逸らしたが、その頬はほんのりと桜の色に染まっていた。
「女として気に入ったよ、ひかりちゃん。大人になったら一緒に飲み明かそうな」
こくっ、と可憐な顔(かんばせ)が上下するのを見届けて、ひかりの頭から優しく手をどけた。
ガタッ、と椅子を鳴らして立ち上がり、今度は娘へ ―― アカネへと ―― 視線を向けた。そ
の瞳に浮かぶ色は、不敵。
「なあ、アカネ、このあたしがケガすると思うか?」
「……よくよく考えたら、おふくろよりも相手のケガを心配してやるべきか……」
「今日は、ほっといたら死にそうな奴がいたからな。そいつの事が気になって受身に回ったけ
ど、明日はそうはいかない。本物の狩人の怖さ、思い知らせてやる」
ニィッ、と口元に刻んだ不吉な笑み。獲物に襲いかかる前の、肉食獣の微笑か。そんな母の
姿に、娘がげんなりとした顔になった。
「その、絶対わかってないと思うから釘刺しとくけど、相手殺したら犯罪だからね? 槍振り回
すような物騒な人間が正当防衛なんて言い訳しても、警察は聞く耳持たないよ?」
「じゃ、半殺しで勘弁してやるか。あたしが警察に逮捕されたら、ひかりちゃん泣いちゃうだろう
しね♪」
半殺しでも十分逮捕されると思うけど……。言っても無駄だと感じたので、アカネはあえて口
にしない。
「んっ、ポルンちゃんもルルンちゃんもごちそうさま? じゃあ、かたしちゃおうか」
アカネの母が空になった食器を手に取った。それを見て、ひかりが慌てて立ち上がる。
「あっ、お母さま、わたしも手伝います」
「いいのいいの、ウチはね、朝はアカネがメシの支度と片付け、その代わり、夕食はあたしの
担当って事になってるから。今日はもうアカネと一緒にゆっくり休んでよ」
空になった食器を運ぼうとするひかりの手から、それらを流れるように貰い受けて、
「ひかりちゃん、ポルンちゃんとルルンちゃんをお願いね」
そう言って一人で流し台に立つ後ろ姿が、優しくひかりたちに部屋に行けと促していた。
「……ありがとう、お母さま」
ぺこりと頭を下げたひかりへ、アカネの母が軽く振り返った。
「愛してるよ、ひかりちゃん」
その甘いささやきとセットで、宝塚スターばりに華麗な仕草で投げキッスを送る。
「……っ!」
それは年頃の少女を撃沈するには十分な威力を持っていた。ひかりが身体の前で両手の指
を、もじっ…と組み合わせて、初々しく桜色に染めた顔をうつむかせる。
「こら、おふくろ、ひかりをからかうなっ!」
「おっ、なんだ、嫉妬してるの?」
背中を向けたまま挑発してくる母に、アカネが言い返してやろうと口を開きかけた。そこに割
り込んできた『ボフンッ』という音。お腹いっぱいになり眠くなったルルンが、レインボーコンパク
トの形態に移行したのだ。
なんとなく気勢をそがれてしまった。アカネの肩から力が抜ける。
「おやすみ」
母の背にぶっきらぼうな一言を投げつけて、ひかりたちを連れて、その場をあとにした。
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